「柳川組」初代組長である柳川次郎は日本を愛し、また祖国の韓国との架け橋になろうとした。だから政治にも近づいた。しかし、柳川に持ち込まれるのは裏仕事ばかりだった。柳川を頼る多くの人間が求めたのは、「殺しの柳川」として恐れられた柳川の“威”である。国のために尽くす“義”ではなかった。連載第4回は、柳川の心の遍歴を辿る。(著・竹中明洋)
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10月だというのに、真夏のような日差しに汗が噴き出してくる。高台の頂上まで階段を登り切ると、びっしりと根を張ったガジュマルの木の下に石碑が建っていた。
県知事選挙が終わり、政治の季節が過ぎようとしていた沖縄で、宜野湾市の嘉数の高台を訪ねた。米軍普天間飛行場を一望できるこの高台は、太平洋戦争末期の沖縄戦で屈指の激戦地となった場所でもある。そこに建つ青丘之塔(せいきゅうのとう)には、沖縄戦の知られざる犠牲者のことが刻まれている。
〈嗚呼ココ沖縄ノ地ニ太平洋戦争ノ末期カツテ日本軍タリシ韓民族出身ノ軍人軍属三八六柱ガ山河ヲ血ニ染メ悲シクモ散華シ侘シク眠ッテオラレマス〉
青丘とは、中国の神話や伝説に現れる東方の地をいう。転じて、中国から東方にある朝鮮半島を指すようになった。石碑は沖縄戦によって犠牲になった386人の朝鮮半島出身者たちを慰霊するためのものだ。彼らは、陣地を構築し荷物を運ぶ軍夫として動員された。
1971年、京都の右翼団体「日本民主同志会(日民同)」の中央執行委員長だった松本明重らが中心となって石碑は建てられた。朝鮮半島出身であっても、日本人として戦い亡くなったことに礼を尽くすべきとの考えからだった。