振り返ると、三菱自動車の絶頂期は1980年代後半から1990年代前半だった。
1987年、同社は「ギャラン」で初めて日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞したが、これは当時の社長だった舘豊夫氏が「絶対に獲れ!」と厳命してもいた。理由は、翌1988年に2つのビッグイベントが控えており、弾みをつけたかったからだ。1つは東証1部への直接上場、もう1つがクライスラーと合弁で立ち上げた、米国での乗用車現地生産工場が稼働を開始することだった。
前後してメルセデス・ベンツと販売提携もしてベンツを併売、三菱自動車のブランドイメージを上げようと試みた。1990年には、トヨタ自動車の「セルシオ」、日産の「シーマ」といった3ナンバー車ブームに乗じて「ディアマンテ」を投入、このクルマも日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞している。
その後、バブル崩壊の過程で日産やホンダが低迷し、三菱自動車の当時の社長だった中村裕一氏は「日産の背中も見えた3位だ」と自信を見せ、ホンダのメインバンクが旧三菱銀行だったことから、当時、三菱自動車とホンダの合併説まで出ていた。また、ベンツ社との提携深化に執念を持っていた事務系の舘氏に対し、技術系出身の中村氏は欧州での乗用車現地生産パートナーにボルボ社を選ぶなど、舘氏から次第に実権を奪っていった。
だが、三菱自動車の快進撃は1990年代後半に暗転する。1996年に米国でセクハラやパワハラ事件が発覚、翌年には総会屋への利益供与事件も明るみに出た。さらに2000年にリコール隠しが発覚、その後、ダイムラークライスラー傘下に入るも、2004年に再びリコール隠し事件を起こす。
ダイムラークライスラーは三菱自動車の経営から手を引き、暫定的に三菱御三家(三菱重工、三菱商事、三菱UFJ銀行)が支える形に。一方、2005年に三菱商事出身の益子氏が登板するまでの10年間で、外国人社長1人を含めて、実に8人のトップが入れ替わるという異常事態にもなった。
その後、2011年に日産と三菱自動車の折半出資で、軽自動車の共同企画・開発会社のNMKVを設立。設立当初、同社の遠藤淳一社長(日産出身)は、
「日産と三菱は比較的、似た価値観を持った企業ではないかと思う」
と語っていた。ともに、EV(電気自動車)で先駆者的存在という共通点があったほか、日産はかつて銀座に本社を置いていた頃、官僚的な社風から“銀座通産省”と揶揄され、一方の三菱自動車も個性より組織重視の風土だから、ケミカルは合ったのかもしれない。
さらに2014年、技術系出身で「ekワゴン」やEVの「i-MiEV」を開発した生え抜きの相川哲郎社長(※父親はミスターコストと呼ばれた、三菱重工元社長の相川賢太郎氏)が誕生し、反転攻勢を強めるかに見えた。が、それも2年後の2016年に燃費不正問題が発覚して霧消して相川氏も2年で辞任、同年日産が拒否権を発動できる34%を出資し、ゴーン会長が舞い降りていた。
そして現在、ルノー、日産、三菱自動車の3社連合の行方は小康状態だ。とはいえ、ゴーン前会長に代わる会長をルノーが送り込み、日産との資本関係も現状のままとは考えにくい。