声なき人々の苦しみに寄り添い続けた今上天皇にとって、特に思い入れの深い地が沖縄だろう。戦前は唯一の地上戦の舞台となり、戦後は米軍基地と向き合わされてきた沖縄を、今上天皇は折にふれて訪れてきた。初訪問は皇太子時代の1975年のこと。本土から2400人の機動隊員が派遣される厳戒態勢の中、事件は起こってしまう。『天皇メッセージ』著者のノンフィクション作家・矢部宏治氏が振り返る。
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1975年(昭和50年)7月17日、明仁皇太子は沖縄海洋博の開会式出席のため、美智子妃とともに那覇空港に到着しました。
当日の天候は晴れ、気温は30度。肌がヒリヒリするような強烈な日差しの中、皇太子ご夫妻は、午後0時40分に空港を出発し、車で沖縄本島の最南端へ向かいました。「ひめゆりの塔」を始めとする沖縄戦の南部戦跡をめぐり、慰霊の祈りをささげるための旅でした。
「石ぐらい投げられてもいい。そうしたことに恐れず、県民のなかに入っていきたい」
沖縄訪問直前、周囲にそう語っていた明仁皇太子ですが、この日、皇太子をめがけて投げられたのは「石ぐらい」ではすまなかったのです。
訪問当日、午後1時5分、那覇空港から南部の戦跡に向かう皇太子の車列が、戦争中、もっとも悲惨な戦いが展開された本島最南端の糸満市に入って数分後に最初の事件が起こります。
左手に立つ白銀病院の3階から、10数本のガラス瓶やスパナ、石などが車列に投げつけられ、後続の警察車両を直撃したのです。幸い皇太子ご夫妻の車には何も当たらず、病院に偽装入院して犯行におよんだ過激派の活動家ふたりも、そのあとすぐに逮捕されました。
さらに午後1時19分、一行は、ひめゆりの塔に到着します。そして皇太子ご夫妻がひめゆり記念会会長(源ゆき子氏)から塔の前で説明を受けていた午後1時23分、塔の横に大きく口をあけた洞穴から這い出してきた沖縄解放同盟の活動家、知念功が、皇太子ご夫妻の前方数メートルの場所に火炎ビンを投げつけたのです。
献花台の手前の柵にあたって炎上した炎は、一瞬高く燃え上がり、明仁皇太子と美智子妃の足元まで流れていきました。ひめゆりの塔の前で火炎ビンを投げられ、現場は大混乱におちいりましたが、それでも明仁皇太子はスケジュールを変えず、煙を大量に吸いこんだ服も着替えず、2キロほど離れた海岸近くにある次の慰霊地「魂魄の塔」へ向かいました。
◆「この地に心を寄せ続けていく」
長い一日がようやく終わろうとする午後10時、次の「談話」が報道陣に文書で配られました。