沖縄の首里城火災により、多くの歴史的建造物や文化財が失われた。歴史作家の島崎晋氏が、首里城など琉球時代からの遺跡群が「沖縄の心」を象徴する理由について解説する。
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「うちなんちゅう(沖縄の人)が泣いている」──那覇市の消防局に、首里城正殿付近で煙が出ていると119番通報があったのは10月31日の午前2時40分頃のことだった。
懸命の消火活動にもかかわらず、火災が鎮圧されたのはそれから約8時間後。発火場所である木造3階建ての正殿に加え、延焼により北殿や南殿など6棟と奉神門が失われる結果となった。
首里城正殿は1429年から450年間存在した琉球王国の王城で、政治や外交、文化の中心地でもあった首里城跡に建設されたもの。太平洋戦争中に戦災で焼失したが、1992年に復元され、2000年には「首里城跡」としてユネスコの世界文化遺産に登録された。また、同年に開催された沖縄サミットを記念して発行された2000円札のデザインには首里城近くの守礼門が採用された。
中国と日本の築城文化を融合した独特の建築様式などに価値があるとされ、沖縄の歴史や文化を象徴する存在だった。「うちなんちゅう」が哀しむのも当然だが、彼らにとっての「象徴」という言葉には実に深い意味がある。そのことは世界遺産に登録されたときの名称「琉球王国のグスク及び関連遺跡群」という名称からもうかがうことができる。
グスクとは城のこと。「琉球王国のグスク及び関連遺跡群」には首里城跡に加え、4つのグスクと国王の別邸、陵墓、拝所、御嶽(うたき)各1か所が含まれていた。御嶽については後述するとして、4つのグスクの中でも沖縄本島中部地区にある座喜味グスクと勝連グスクは復元されたものだが、北部地区の本部半島にある今帰仁(なきじん)グスクと南部地区にある中グスクは創建当時の姿を留めている。
今帰仁グスクは琉球王国統一以前の北山王の居城で、築城は13世紀頃。グスクとしての規模は沖縄でも最大級で、とりわけ長い城壁に目を奪われる。一方の中グスクは15世紀初頭、すなわち北山、中山、南山の3国が統一される前後に建造されたもので、高度な技術で造られた城壁が非常に美しく、1853年に浦賀へ向かう途中のペリー一行もその素晴らしさに心打たれたと、乗船者の一人が書き残している。
これらのグスクに共通するのは、単なる古城ではなく、必ず近くに御嶽が存在すること。正確を期すれば、特別な御嶽の近くを選んでグスクが築かれたと言ったほうがよいだろう。