5尺2寸(156cm)の小さな体で、巨漢のベーブ・ルースに立ち向かっていった──。昭和9年の日米野球では32歳ながら、17歳の沢村栄治を凌ぐチーム最多の7試合に登板。無尽蔵のスタミナを見せて観衆を驚かせたのが、プロ野球史上“最小兵選手”浜崎真二だった。
「緩急をつけたり、相手打者との間を外したりするなどして、いかにボールを速く見せるかを考える頭脳派で、バネを生かした躍動感溢れる投球フォームだったそうです」(巨人時代に指導を受けた中村稔氏)
明治34年、広島県生まれの浜崎は大正11年の第8回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園)で準優勝投手になる。その後慶應大学に進学し、大正14年の復活早慶戦で先発するなど主戦を張った。卒業後、日本の租借地である大連に渡り、大連満州倶楽部に入った。
「満州では、3人の若手選手が住む家を見つけられるまで自宅に下宿させていました。チームの選手たちを大勢呼んでバーベキューをするなど面倒見のいい人でした」(次女の貞子さん)
終戦後の昭和22年、日本へ引き揚げた浜崎は45歳で阪急に選手兼総監督として、プロ野球史上最年長の入団を果たす。この年には、同じ身長だった弟の忠治も中部日本でプレーしている。
浜崎の出場試合や勝利投手の最年長記録は5年前に山本昌(中日)に抜かれたが、現在も48歳9か月での安打、48歳4か月での打点、45歳10か月での盗塁などの最年長記録は保持している。