30~40代の就職氷河期世代は、多感な時期を常に同世代と争い、競って過ごしてきた。だが、どれだけ頑張っても親世代と違ってうまくいかず、競争ばかりしてきたためか努力が足りなかったと思ってしまう人が多い。その失敗は、自己責任だけではなくまだやり直せるという期待をこめて彼らを「しくじり世代」と名付けたのは、近著『ルポ 京アニを燃やした男』が話題の日野百草氏。今回は、「日本を変えたい」と市議会議員選挙出馬を決意した47歳男性についてレポートする。
* * *
関東近郊の私鉄、各駅停車駅構内で待ち合わせると、パリッと決めたスーツにネクタイとチーフ姿の男が待っていた。田中真次さん(仮名・47歳)の様相はすっかり変わっていた。私が知る田中さんはいつもラフな格好で、スーツやジャケットを好む私を揶揄する側だった。おしゃれでなかなかのイケメンでもある。細身長身がとてもうらやましい。
「県議会議員のお手伝いに行ってたんだ。党員も大変だよ」
駅前の喫茶店、さっそく党員証も見せてもらった。なかなか見るものではないから興味深い。
彼の噂は聞いていた。私にとっては業界関係なしの昔なじみだが、サラリーマン生活をやめて政治家を目指し始めたことはメールで聞かされていた。直接会うのは久しぶりだ。
「以前から政治には関心があったんだ。それは知っているだろ」
1990年代後半、確かに彼と食事すると政治問題の話になった。よく覚えているのは1997年の第2次橋本改造内閣発足時、ロッキード事件で有罪判決を受けた過去を持つ故・佐藤孝行衆議院議員が入閣した時にえらく怒っていたことだ。「中曽根の陰謀」と当時語っていた。
私も彼もお互い20代、まだインターネットは電飾ネオンのような個人ホームページが関の山の時代だった。このあと本格化するIT革命など知るよしもなし、才ある団塊ジュニアの若手起業家や技術者は自らの氷河期を挽回するかのように、この革命の「波」に乗った。この前年に堀江貴文(1972年生まれ)はオン・ザ・エッヂを創業、1997年になると青野慶久(1971年生まれ)はサイボウズを、佐野陽光(1973年生まれ)はクックパッドの前身となる会社を、槙野光昭(1973年生まれ)は後のカカクコムを創業した。徒手空拳の彼らに賭けた同世代のメンバー含め、1971年~74年生まれで新卒時には就職氷河期だった団塊ジュニアにとって、最初の挽回のチャンスだったと言えるだろう。転職時に「変な名前の怪しい会社」と皆から笑われた私の知り合いは、いまや執行役員である。
この波に乗り成功する少数以外は負け組と呼ばれるような格差社会になるなんて、どれだけの日本人が予想したことか。私はオタク系のフリーライター、彼は老舗企業のサラリーマンで、今から思えば目端の利かぬ「波の外」の凡人だった。そう、今から思えば、我々にもチャンスはあった。なかったことにしてはいけない。