映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづった週刊ポスト連載『役者は言葉でできている』。今回は、歌舞伎俳優であると同時にベーシスト、作曲家でもある中村梅雀が、役者家系に生まれ、一流というものを学んだことにより変われた体験などについて語った言葉をお届けする。
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中村梅雀は祖父が歌舞伎役者で劇団前進座の創立者の一人でもある中村翫右衛門、父が中村梅之助という役者家系に生まれ、早くから芸事を習得していく。
「生まれた時にはもう、当たり前のようにそっち方向に進むことになっている雰囲気でしたね。お前の好きにしていいんだぞ、と言いつつ外堀は埋められ、線路が敷かれていました。
我が家の方針で、僕は五歳から役者の基礎訓練をさせられています。中学の三年間は免除されていましたが、高校に入ったら、日本舞踊に長唄、義太夫、三味線、それから茶道も。ひたすら嫌でした。十代の時は、いかに稽古場に行かずにサボるかばかり考えていました。
ただ、翫右衛門の伝手で日本舞踊は吾妻徳穂先生に習うことができたんですよね。先生の稽古事への姿勢に触れたり、内弟子でつきながら一日ずっと過ごすことでさまざまな世界の超一流に出会い、食べるものも一流を味わうことができました。そういうものも覚えていないと違いが分かりません。
二十歳を過ぎた頃、先生が稽古場のおさらい会をやったのですが、この時の長唄、三味線、鳴り物の音が全てすばらしかった。幼い頃から歌舞伎や前進座を観てきましたが、それまでに聞いてきた音と違うんです。
これが一流だ、と思いました。その時に全身に何かがビッと入った感じがして、そこから変わりました。でも、あくまでそれは徳穂先生の弟子として。役者として性根が入ったのはずっと後、三十代になってからです」
大学卒業後、一九八〇年に祖父と父のいる前進座に所属、役者として本格的に歩み始める。