「この年、近鉄のチーム打率は2割2分5厘と低迷。そのため、関根さんの2割8分4厘は大きな価値がありました。前年もパ・リーグで3割打者は5人しかおらず、『投高打低』が明らかだったのに、関根さんが打者転向を決断したことに驚かされます。当時は20勝が一流投手の条件と考えられており、そこに届かないからと投手に限界を感じたと生前、話しています。
しかし、前年は9勝、2年前は14勝、3年前は16勝を挙げており、普通はスパッと切り替えられないでしょう。ましてキャンプ、オープン戦は投手として調整を続けたわけで、開幕後にすぐ方向転換できるメンタルも凄い。もし関根さんが投手にこだわっていたら、この年の近鉄はクリーンアップの一角を欠くことになりますから、最下位になった可能性も十分にある。そうなったら、1957年限りで近鉄が消滅していたかもしれません」
結果的に、この年最下位に沈んだ大毎ユニオンズが毎日オリオンズと合併。翌年から『大毎オリオンズ』となり、パ・リーグも6球団制となった。もし1957年に関根潤三が打者に転向しなかったら――。1人の男の決断が、プロ野球の歴史を大きく変えていた。