長き球史で達成者はわずか7人(11回)。中島治康、野村克也、王貞治、落合博満、ブーマー・ウェルズ、ランディ・バース、松中信彦だけが成し遂げている。あの長嶋茂雄や松井秀喜ですら成しえなかった「三冠王」という大記録に、まだシーズン序盤とはいえ、期待を集める選手が両リーグに現われている。ただ、これまで数多くの強打者が“あと一冠”に涙を飲んできた。
好スタートを切ったのは巨人の岡本和真だ。10試合を終えた時点で打撃三部門のリーグトップとなった。その後、15試合終了時点(7月7日)で本塁打は2位、打点は7位となったが、打率1位はキープしている。
さらにセではDeNAの宮崎敏郎、広島の鈴木誠也、パでは楽天の浅村栄斗といった過去の打撃タイトルホルダーたちも3部門すべてでベスト5に名を連ねている(7月7日時点)が、球界のレジェンドたちは「最注目はタイトル未経験の岡本」と口を揃える。三冠王への道の険しさを誰より知る、惜しくも三冠王を逃した歴代の「二冠王」たちはどんなアドバイスを送るのか。
「怪童」と呼ばれた中西太氏(87)は、西鉄入団2年目の1953年に本塁打、打点の二冠王に輝くも、打率が4厘届かず。その後も3度、二冠に輝くが三冠には届かなかった。最も三冠に肉薄したのは最終戦を残して本塁打、打点がトップだった1956年のシーズン。
「チームメイトの豊田泰光を4毛下回る打率2位からの逆転を狙ったが、最終戦で三原脩監督は、両選手をオーダーから外しました。それまでタイトルに縁のなかった豊田に首位打者を獲らせたかった三原監督の温情だったと言われています」(元スポーツ紙編集委員)
当の中西氏はサバサバと振り返る。
「僕の時代は三冠王が騒がれることもなく、個人記録よりチームの日本一が目標でした。豊田君と打率を競った時も、チームメイトと争う気持ちはなかった。最終戦の欠場も日本選手権のために練習をしただけで、三冠王は頭にありませんでした」