年間3億円の売上げ
そして戦後、本格的に農業に取り組んだ。
「これからは、米だけでは食っていけない」。そう考えた和三郎は従来の稲作ではなく、いちご栽培に取り組んだ。かなり進んだ考え方の持ち主といえる。おまけに米づくり中心の地元「こまち農業協同組合」に対抗し、「秋ノ宮いちご生産出荷組合」まで創設した。
東北でも屈指の豪雪地帯である秋ノ宮は、もともと有名ないちごの産地でも何でもなかった。雪深い寒冷地という気象条件ゆえ、他の地域より出荷を遅らせなければならない。和三郎は逆にこれを利用し、時期外れのいちごとして売り出した。やがて本人の名前から付けた「ニューワサ」というブランドいちごは、年間3億円も売上げるようになる。
和三郎は秋田から東京や千葉、神奈川、大阪の果物市場を訪ね歩き、独自の生産、出荷・販売ルートを築いていった。
「おっかない親父でしたよ、義偉君のお父さんは。とにかく声の大きなお父さんでした」。そう懐かしむのは、幼馴染の由利(前出)だ。
「和三郎さんは東京や大阪の卸売市場に『ワサ』を持ち込んでいった。私が湯沢市会議員として築地市場に調査に行ったときなどは、市場の専務さんも『雄勝町には、菅和三郎さんって人がいらっしゃるでしょう』と話題にされました。まだ湯沢と合併する前の雄勝町のころでしたけど、和三郎さんは東京でも相当有名なんだな、と感心しました」
こうしてニューワサは秋田の名産として全国に知られるようになり、和三郎は新聞にも取り上げられた。由利はいちごの説明になると、熱が入る。
「築地市場の人からは、『ワサをもっと増やせばいい』と言われたもんです。他の地域でも真似をされ、値段が下がり始めた。すると和三郎さんは苗を冷蔵していちごの出荷時期をさらにずらそうとした。そうして値段を確保した。それも市場関係者に評価されていました」