矢口高雄、本名高橋高雄は、1939(昭和14)年、現・横手市増田町狙半内の小作農家の長男に生まれる。〈朝に屁をすりゃ夜まで臭い〉と言われた村は県内有数の豪雪地帯で、百日咳にかかった弟を医者にも診せずに死なせた悔恨や人々の偏狭さ、決して美しいだけでない雪の厳しさ、酷さが、矢口が描き、守ろうとした自然には常に背中合わせにあったと藤澤氏は言う。
「その鬱屈や複雑さが反骨心にも繋がるんですけどね。例えば『三平』の57巻で〈雪はそんなにあまっちょろいもんじゃねえ〉〈つめたくってさむくってつらいもんだ〉と嘆いてみせた先生は、73年の『おらが村』では、出稼ぎにも〈光と闇〉があった高度成長期の実相を描いている。つまり企業誘致を急ぐ村長に、〈山も雪もねえ都会さ命の洗濯に行ぐ〉〈出稼ぎは悲劇じゃねえ…天国じゃあ〉と反対する村人の本音が、当時は悪書扱いすらされた漫画の中に記録されていたわけですね。
手塚先生の志を継ぐように漫画の地位向上に努めた先生の作品は、それ自体、時代や農村風俗を記録した文化的価値があると増田まんが美術館の大石卓館長も言っていた。本人は純粋に好きで書いたんでしょうけど、私自身、先生のジャーナリスティックな姿勢には常に教えられ通しでした」
地方出身者特有の葛藤が与えた深み
成績優秀だった矢口は、狙半内初の高校進学者にして銀行員。旧羽後銀行時代に地元の高校に通う勝美夫人に恋をし、結婚するが、入行以来、漫画を描くことは8年間封印していた。それが『月刊漫画ガロ』で白土三平の『カムイ伝』を読んで大きな衝撃を受ける。すぐに東京に行き、名編集者・長井勝一や水木しげる、池上遼一らに会い意見を仰ぎ、晴れて『長持唄考』が『ガロ』に掲載されたのを機に辞職と上京を決意する。矢口が29歳の時だった。
「ちなみに三平三平の姓は秋田出身で元大毎オリオンズの三平晴樹投手、名前は白土三平から取っていて、高橋高雄という本名の語感も意識されたそうです」