東日本大震災から「もう10年」か、「まだ10年か」。街の復興と心の復興は、同じスピードで進むわけではない。被災した人々の心には、永遠に消えることのない「あの日」の記憶が残り続けている──。
「震災で被災者が負ったのは、それぞれ異なる深さや大きさや形が折り重なった、重層的な傷でした」
そう語るのは、宮城県栗原市にある通大寺の住職である金田諦應さん(65才)。金田さんは、避難所や仮設住宅などを回り、被災者の言葉に耳を傾ける傾聴移動喫茶「カフェ・デ・モンク」を主宰し、震災直後から続けてきた。「モンク」とは、英語で修道僧を意味し、そこへ「文句」「悶苦」の意味も兼ねている。想像を絶する出来事に直面し、複雑な傷を負ったとき、人は「放心状態」に陥ると金田さんは話す。
「震災後に私たちが火葬場でボランティアをした際、遺族のかたがたは放心状態で、泣くこともできませんでした。現実に起きたことがあまりに凄絶だと、人は喜怒哀楽の感情を失います。すると過去現在未来という時間の感覚も止まってしまい、未来に向かって歩くことができなくなる。こうした感覚を取り戻すことが、この10年の被災地の大きな課題でした」
宮城県石巻市の居酒屋で、ひとり、酒を嗜んでいた佐藤崇さん(52才)は、失った母親への本音を明かす。
佐藤さんの母親は、足の悪い近隣住人の救助へ向かい、津波に流されて行方不明になった。半年後、気仙沼沖で底引き網に引っかかった頭蓋骨をDNA鑑定したところ母親の遺骨と判明した。DNA鑑定によって被害者の身元が判明した初めてのケースだったが、佐藤さんはその事実をいまも受け入れられないと話す。
「結局、遺体は頭蓋骨しか見つかっておらず、10年経った現在も母を捜す気持ちに変わりはありません。いまだに、『母は記憶喪失になって、どこかで生きているのではないか』と考えてしまいます」
スーパーへ買い物に行くとき、街を歩いているとき、母親と風貌が似た人を見かけると佐藤さんは固まってしまうという。
「思わず立ち止まって見つめてしまい、『母さん』と声をかける寸前までいったことが何度もあります。普通に病気で死ねば、悲しみや喪失感は時間とともに癒されるのでしょうが、震災による死は感覚がまったく異なります。何も見つからない人もたくさんいるので、うちは頭蓋骨が見つかっただけでも、幸せかもしれません。
死んだことはわかっていても、ピンとこない人は多い。祈りたくても祈れない、被災地にはそんな人がまだ大勢いることを忘れないでほしい」(佐藤さん)