1967年に阪神に入団した江夏豊は、巨人戦でさまざまなドラマを作り、虎党の心を鷲づかみにした。甲子園の巨人戦では駅から球場までの道にダフ屋が列を作り、ついには球場に入れないファンを救済しようとラッキーゾーンにまで客を入れたこともあった。当時の伝統の一戦では、ベテランになった村山実と長嶋茂雄のライバル対決と並び、その村山から「お前は王を抑えろ」とハッパをかけられた江夏と王貞治の真剣勝負も見せ場だった。
その江夏は無口な一匹狼で、チームメイトともあまり交流はなかったというが、見えないところで努力を惜しまない求道者でもあった。『週刊ポスト』(4月26日発売号)は人気シリーズ「昭和のライバル対決」で江夏と王の対決秘話を取り上げているが、その陰にあった投手・江夏の知られざる素顔を、バッテリーを組んでいたダンプ辻こと辻恭彦氏に聞いた(以下、文中敬称略)。
「江夏が入団した頃には、僕は主にブルペンキャッチャーをしていました。江夏と組むようになったのは翌年(1968年)からです。それまでマスクを被っていたヒゲ辻さん(辻佳紀)とのコンビがどうも調子が悪いと判断した藤本定義・監督が僕を使ってくれた」(辻氏=以下、「」内は同)
キャッチャーはよく女房役と言われるが、孤高の勝負師だった江夏と辻は会話や会食の機会もほとんどない「静かな夫婦」だったという。
「江夏とは飯に行ったこともないし、お茶を飲んだこともありません。じっくり話したのは、甲子園で雨が降って試合中止になった時に1時間くらい話しただけ。その1回きりでしたね。僕が『どういうピッチャーになりたいんだ?』と聞くと、『ホームランを打たれるのが嫌だ』と、それだけなんですよ。
当時、同じ兵庫出身で江夏の1年先輩の鈴木啓示が近鉄で活躍していましたが、結構ホームランを打たれていた。江夏は、『あんなふうにホームランを打たれたくない』と言うんですね。だから僕は、右打者でもアウトローにサインを出すから、それを投げられるコントロールをつけろと話しました。左腕の江夏は右打者にはインコースにクロスファイアを投げ込みたかったみたいですが、鈴木がそれを武器にしていて、甘くなるとホームランを打たれていた。実際に北海道遠征で僕のリードで1安打ピッチングをしたことで江夏も納得し、それから三振の取れる投球を研究していきました。左ピッチャーで右打者のアウトコースにきっちり投げたのは江夏が初めてじゃないですか」