第三波の終わりころ、私は状態の悪化しているコロナ患者の男性を救急搬送する機会を持った。専門医のいる大病院に運び込み、集中治療室に収容されていく中で、ベッドの上の男性は、かろうじて顔をあげて、付き添ってきた私の方に右手を差し出した。手袋越しに手を握れば、男性は酸素マスクの向こうに笑顔を見せて礼を言い、それから次のように続けた。
「大変でしょうが、先生。たくさんの患者のためにも、がんばってください」
温かい言葉であった。
怒りや不安の声よりも、そんなささやかな励ましがどれほど大きな力を与えてくれるか、改めて実感させてくれた言葉であった。約十日後、男性が亡くなったという報告を受け取ったが、そのときの温かい言葉は今も胸の奥に確かに残っている。
【プロフィール】
夏川草介(なつかわ・そうすけ)/1978年大阪府生まれ。信州大学医学部卒。長野県にて地域医療に従事。2009年『神様のカルテ』で第10回小学館文庫小説賞を受賞しデビュー。同書で2010年の本屋大賞第2位となり、映画化もされた。他の著書に、『神様のカルテ2』(映画化)『神様のカルテ3』『神様のカルテ0』『新章 神様のカルテ』『本を守ろうとする猫の話』『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記』『始まりの木』がある。
※週刊ポスト2021年5月7・14日号