明智小五郎と金田一耕助──誰もが知る名探偵2人を生み出した日本ミステリー界の両巨頭が、江戸川乱歩と横溝正史である。日本の探偵小説(推理小説)の黎明期といわれる1920年代のデビュー以降、戦前・戦中・戦後を通じて切磋琢磨してきた。
月刊誌『新青年』の懸賞小説で横溝の『恐ろしき四月馬鹿』が一等となり、同誌に掲載されたのは1921年4月号。遅れること2年、乱歩は同誌1923年4月号に処女作『二銭銅貨』を発表する。デビューこそ遅れたものの、8つ年上の乱歩が先にブレイクし、文壇での評価を確立する。
そんな2人の初対面は1925年に訪れた。神戸在住の作家・西田政治の自宅で乱歩と面会した当時のことを、横溝は後にこう書いている。
〈このとき私の運命は決定したのである。もし、このことがなかったら、引っ込み思案の私のこと、いまでも神戸で売れない薬局を経営しながら、しがない生涯を送っていたにちがいない〉〈今日にいたるまでの私の生き方は、すべて乱歩さんに敷設していただいたも同様である〉(『探偵小説昔話』)
長きにわたる交遊のなかで、2人は作家同士ではなく“作家と編集者”として関わりをもった時期もある。
横溝は乱歩との面会後、1926年に上京。『新青年』の編集者となり、乱歩の長編『パノラマ島綺譚』や『陰獣』を担当した。一方の乱歩は、後年、雑誌『宝石』の編集長を務めた際(1957~1962年)、横溝の長編『悪魔の手毬唄』を掲載している。
乱歩の孫である平井憲太郎氏が語る。
「横溝さんと祖父は親しく、家族ぐるみでお付き合いしていました。戦後しばらくまで、文壇で大衆小説は純文学より一段下に扱われていたから、見返してやろうという仲間意識が強かったように思います」
横溝正史の次女・野本瑠美氏は、「2人には響き合うものがあった」と言い、こう明かす。
「父は常々“乱歩さんが書いているから僕は書けるんだ”と話していました。乱歩さんも、実の弟のように見守ってくださっていたように思います。私が生まれる前、父が病に倒れた時は乱歩さんが旗振り役となりカンパを募って、療養費から生活費まで送ってくれたそうです。私が生まれたあとも、転地療養していた上諏訪まで来てくれた。戦後、疎開先の岡山から成城に帰った時に『お帰りなさい』と玄関を開けて迎えてくれたのも、乱歩さんでした」