芸能界随一の結束力を誇った石原プロモーションには、退社した者とは基本的に共演しないケースが多かった。石原裕次郎さんとの共演数が最も多い浅丘ルリ子(80才)もその1人だったが、ついに舘ひろし(71才)との共演が実現することで、大きな話題を呼んでいる。
自宅マンションの外階段で、ひとりの女性が慎重に上り下りを繰り返している。時間にして約10分。階段を離れると、自宅の前をゆっくりとした足取りで100mほどウオーキングする。そんな姿が、最近よく目撃されている。
「その女性は浅丘ルリ子さんですよ。健康維持のためなのかな、階段を使って運動されているんです。日課になっているようで、お元気そうな姿を見かけますよ」(マンションの住人)
傘寿を迎えた浅丘にとって、10分を超える階段の上り下りは、健康維持にしてはハードすぎる。彼女はある人の思いに応えようと、体力づくりに挑んでいるのだ。
石原裕次郎の相手役を最も多く務めた浅丘ルリ子だったが……
5月12日、芸能関係者がザワつく出来事があった。舘の独立後初となる主演ドラマの詳細が明らかになったのだが、その共演者が浅丘ということで驚きの声があがったのだ。
浅丘は元石原プロモーション所属で一時期は役員を務めたこともある。ところが、石原プロを離れてからは、石原プロ所属の俳優との共演は一切ない。舘との共演は「49年越しにタブーが破られた」と騒がれているという。
石原プロは1963年に故・石原裕次郎さん(享年52)によって設立された。
「旗揚げの際に、裕次郎さんが声をかけたうちの1人が浅丘さんでした。当時、浅丘さんは日活のトップ女優でしたが、テレビの普及によって映画業界が下火になり、映画スターの活躍の場が減っていたんです。そんななかでも、石原プロは映画製作に力を入れていました。映画への思いが強かった浅丘さんは、のちに石原プロに移籍しました」(芸能関係者)
裕次郎さんは生前100本以上の映画に出演しているが、その相手役を最も多く務めたのが浅丘だった。
「37本で共演していて、時には週2本のペースで撮影を共にしていたこともあります。家に帰る時間もなく、2人はセットの片隅で重なるようにして眠っていることもありました」(前出・芸能関係者)
6才年下の浅丘に、裕次郎さんは常に気を使っていたという。
「裕次郎さんが浅丘さんを誘い、2人きりで食事に出かけることもよくありました。あまりに仲がいいので、交際が噂されたこともあるほどです」(前出・芸能関係者)
当時の映画界では、主演は男性で女優はそこに花を添える脇役というケースが大半。しかし浅丘は主演にこだわりを持っていた。そんな浅丘の気持ちを裕次郎さんは理解していたのだろう。浅丘は石原プロ在籍中に、『華やかな女豹』(1969年)や『愛の化石』(1970年)などで主役を演じている。
そんななか、石原プロの“失敗”が浅丘の退社につながることになる。石原プロ元常務取締役の仲川幸夫さんは、当時をこう振り返る。
「石原プロは、『黒部の太陽』(1968年)や『栄光への5000キロ』(1969年)などの大ヒット映画を生み出しましたが、1970年の『ある兵士の賭け』が大コケしました。公務員の初任給が約3万円の時代に、6億円もの負債を抱えることになったんです。これが遠因となって、映画製作の幅を狭めざるを得なくなりました。映画に出続けたかった浅丘さんが石原プロを辞めるのは、自然な流れでもありました」