1983年創刊のアイドル雑誌『Momoco』の巻頭グラビア「Momoco写真館」は創刊号から、写真家の小澤忠恭氏が撮影を担当した。篠山紀信氏の元から独立して4年目、当時32歳の彼は、どのようにして人気グラビアページを生み出したのだろうか。小澤氏が当時を振り返る
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いくら忙しいアイドルでも2泊3日の旅で撮影しようと編集部に提案しました。ところが売れっ子は時間が取れないから、必然的に新人が多くなる。これが業界の常識を壊しました。
当時、『明星』『平凡』のような芸能雑誌では、新人アイドルは小さいモノクロ記事からスタートする。その後、1、2ページのカラーに昇格し、スターになったら巻頭を飾れる。
『Momoco』はこの順番を無視して、いきなり新人に巻頭カラー16ページを割いた。他の出版社に行くと、「芸能界おかしくなっちゃうよ」と怒られました。でも、予定調和を壊したから読者に受けた。部数がどんどん伸びるので、事務所も無視できなくなり、治外法権のような雑誌になりました。登場してくれたアイドルは事務所やレコード会社の一推しの新人。陽気で希望に満ち溢れていた。だから表情も堂に入っていました。
撮影では「心からの笑顔」と「恋している時の真顔」の落差で彼女たちの魅力を引き出そうと考えていました。15年くらい前、酒井法子さんと仕事をした時、「小澤さんって1回も『笑って』と強制しなかったよね」と言われました。
注文から生まれる笑顔は大したことないんですよ。ただ、「誰かに勝つとか負けるとか考えないで。嫉妬が表情に出るから」というお願いはしました。無理な笑顔も泣き顔もいらない。レンズを向けながら、心の中で彼女たちに「輝け!」と叫んでいました。本物の輝きを撮るために、2泊3日が必要だったんです。
寝そべってもらい、胸元が見えそうで見えない写真も狙いました。緩みのある衣装を着てもらいましたし、ブラジャーをしないで撮影に臨む子もいました。写真には写らないけれど、彼女たちの覚悟が色っぽさを醸し出していた。