昨今のコンサートや舞台では、新型コロナウイルス感染症対策のため、観客は声を上げられないケースがほとんど。演者は、マスクで口元を覆った無表情の人たちに見詰められながら、自らのパフォーマンスを披露しなければならない。非常に難しい環境だろう。
そんな反応の薄いコロナ禍ライブでも、今年還暦を迎えた田原俊彦は以前と変わらない動きと喋りを続けている。8月21日、新型コロナウイルス感染拡大防止のガイドラインに沿って千葉・市原市民会館で行なわれた全国ツアー初日公演の最初のMCでこう話した。
「僕はテレビで育った人間ですから、(客席が静かでも)なんてことはないです」
田原がデビューしてスターに成長していった1980年代、テレビでは毎日のように音楽番組が放送されていた。『レッツゴーヤング』(NHK)や『歌のトップテン』(日本テレビ系)のように客を入れる公開収録もあったが、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)や『ザ・ベストテン』(TBS系)などスタッフしかいないスタジオで歌うことも多々あった。
『夜のヒットスタジオDELUXE』の司会を1985年10月から務めた古舘伊知郎は今年7月12日更新のYouTubeチャンネルで、番組の本番前にディレクターが分厚い台本でADの頭を引っ叩き、出演者やスタッフの空気がピリッと締まったことなどを明かしている。つまり、当時のアイドルは笑えない状況を目の当たりにしながらも、自分の出番になれば切り替えて笑顔を見せたり、曲に入り込んだりしていたわけだ。
1980年代後半にゴールデン帯の歌番組が続けざまに終了し、ヒットすれば毎週歌えるランキング番組もなくなったが、1980年代前半の田原のテレビ番組への出演回数は圧倒的だった。当時のVTRや新聞のテレビ欄などを参照しながら調べたところ、田原はデビュー3年目の1982年には362本の番組に出演している(再放送除く。拙著『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記』巻末資料より)。
さらに、今では考えられない環境で歌うことも多数あった。1983年3月31日、田原は『ザ・ベストテン』で『ピエロ』が2位にランクイン。岡山・倉敷でのコンサートを終えて新幹線で帰京中だったため、名古屋駅に停車する2分を使って車内で歌った。スタジオと中継が繋がると、司会の黒柳徹子はこう畳み掛けた。