徹子:随分、いろんな方がいろんなことをこの番組ではなさいましたが、新幹線の中でお歌いになるというのは、あなたが初めてではないかと思いますが。
田原:あ、そうですか。僕も初体験です。
徹子:恥ずかしいとかそういうことは?
田原:いや、そんなことないです。周りみんなね、僕のコンサートのスタッフと仲間たちだからね。
この時は観客がいない上に、番組は名古屋駅前の商業ビル『テルミナ』の屋上から撮影しており、新幹線内にカメラすらない。曲は田原のヘッドホンからは聞こえるのみで、車内では流れていない。周囲のスタッフからすれば、アカペラで歌っているように聞こえる。徹子が「恥ずかしいとかそういうことは?」と尋ねたのも、独特な環境を考慮したからだろう。それでも、田原はいつもと同じように歌い、司会の久米宏に「新幹線で歌った気分はどうでした?」と聞かれると、「もう、最高ですね(笑)」と吹き出していた。
同番組では、苗場でテニスをしながら『原宿キッス』を披露(1982年7月8日)。雨の降りしきる両国国技館前で、つま先がはみ出るほどのスペースしかないクレーンで地上数10メートルの高さまで釣り上げられて『銀河の神話』を歌ったこともあった(1985年2月28日)。
さまざまな特殊な体験をしていた田原にとってみれば、コロナ禍ライブの静寂は“なんてことはない”のだろう。1980年代、毎日のようにテレビの向こうにいるファンを想像しながら、テンションを上げて自らの魅力を訴えていたからだ。
当時は権威である高視聴率の歌番組に出演せず、ライブ中心に活動するアーティストがカッコイイという風潮もあった。そんな時代に、彼はテレビに出演し続け、奇想天外な演出にも応えた。ファンにはカッコ良く映っても、ダサいと感じた視聴者もいたはずだ。
だが、コロナ禍の今、反応の薄い状況や無茶な演出方法の中で歌った経験が役に立っている。客席が盛り上がっていなくても、自らの力で引っ張っていく1980年代アイドルの底力は侮れない。
■文/岡野誠:ライター。著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)では本人へのインタビュー、野村宏伸など関係者への取材などを通じて、人気絶頂から事務所独立、苦境、現在の復活まで熱のこもった筆致で描き出した。田原の1982年、1988年の全出演番組(計534本)の視聴率やテレビ欄の文言、番組内容なども巻末資料として掲載。