日本一の繁華街として知られる銀座。日が落ちれば街中には“夜の蝶”が漂うが、銀座の旧来のスタイルに“風穴”を開けた異端のクラブがあった。それが、後の直木賞作家・山口洋子の「姫」だ。ノンフィクション作家の細田昌志氏が、山口の生涯について綴る。
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佐久間良子や山城新伍と同期生で東映ニューフェイス4期生だった山口洋子が、女優を廃業して、銀座7丁目の木造ビルの二階に五坪の小さな店をオープンしたのは1950年代後半のことである。店の名前を「姫」としたのは、安藤組組長、安藤昇の愛人としての呼称に由来する。伝説のクラブ「姫」は、懲役に行った情夫の帰りを待つように誕生した。
老舗の「ルパン」から後発の「エスポワール」「おそめ」に至るまで、この時代の銀座の人気店には、政治家、財界人、文士が列をなすように集った。当時のホステスに要求されたのは教養である。そこで大卒の才媛や良家の未亡人がことごとく採用された。ホステスの1日が日経新聞に目を通すことから始まったという逸話は、あながち作り話ではない。
新参の山口洋子はその慣習をせせら笑うように「若くて美しければ、男の方から話を合わせてくるはず」と二十歳そこそこの小娘ばかりを集めた。読みは的中する。これまで「銀座は敷居が高い」と忌避していた顧客がこぞって「姫」にやって来たのだ。歌手、俳優、作家、画家、写真家、新聞記者、テレビマン……。
「今日は持ち金がなくて」と尻込みする若い男に、「安心して。あそこの呉服屋の社長にツケといてやったから」というようなことも頻繁にあったらしい。店は銀座内で転居を繰り返すたびに「クラブ」としての体裁を設えていった。
評判を聞きつけて銀座と無縁だった新たな客層が現われた。プロ野球選手である。大金を稼ぎながら安酒をあおっていた彼らが「姫」に吸い寄せられたのは必然だった。金田正一、杉浦忠、野村克也、張本勲……美女揃いで敷居が低いと来たら行かない理由はなかった。程なくマダムは恋に落ちる。相手は中日ドラゴンズのエース、権藤博の説が専らである。東京遠征のたびに必ず訪れる権藤の姿を見てある客は「姫、姫、権藤、姫、権藤」と冷やかした。
三足の草鞋
作詞を始めたのは1967年のことだ。友人の神楽坂浮子に『銀座化粧』を提供すると思いのほか好評で、いくつかの作品をしたためた。すると1970年『噂の女』(内山田洋とクールファイブ)が大ヒット。余勢を駆って無名の下積み歌手、三谷謙をプロデュースする。
平尾昌晃とのコンビで書いた三谷の再デビュー曲こそ『よこはま・たそがれ』。すなわち、五木ひろしのことだ。1973年には『夜空』で日本レコード大賞を受賞。人気作詞家の仲間入りをはたした。