「おふたりは東京からニューヨーク、おれらは佐賀から大阪。一緒やん、と思って……」
渦中の秋篠宮家長女・眞子さまと小室圭さんの姿にかつての自分を重ね合わせて振り返るのは、タレントの島田洋七(71才)。漫才コンビB&Bとして「もみじまんじゅう!」のギャグで1980年代の漫才ブームを牽引し、その後に人気が急降下して危機を迎えるも、人情味あふれる自身の祖母を描いた自伝小説『佐賀のがばいばあちゃん』の大ヒットで息を吹き返し、介護のため佐賀に移住……。ジェットコースターのような人生に寄り添う妻とは、駆け落ち婚で結ばれた。
洋七が妻を見初めたのは、故郷・広島の大学を中退して、祖母の住む佐賀を訪れていたときだった。たまたま入った喫茶店で鉢合わせしたふたりは意気投合。たちまち結婚を意識する“運命の相手”となったが周囲は猛烈に反対した。
「嫁の実家に挨拶に行っても、お父さんには会ってもらえなかった。そりゃそうや。こっちは就職もせず、八百屋でアルバイトしとったからね。うちの親や親戚も『ちゃんとした仕事についてからでないとダメだ』とみんな反対だった。だけど唯一、がばいばあちゃんだけは『おりたい人とおるのがいちばんいいんじゃないの』と言ってくれたんよ」(洋七・以下同)
当時成人したばかりの洋七に大人たちの声は届かなかった。ずっと地元で暮らしてきたふたりは「都会に住みたい」との一念で故郷を離れ、先輩のつてを辿って大阪へと出奔した。出会いからわずか半年後のことだった。洋七はそこで生涯をかける仕事に出会うことになる。
「先輩の奥さんから『大阪は漫才と新喜劇が名物だから見に行ったら?』と言われてなんば花月で吉本新喜劇を見たことがきっかけで、漫才師になりたいという夢を持つようになりました。舞台の面白さはもちろんのこと、終わった後に、当時出演していた笑福亭仁鶴さんや中田カウスさんが次々と高級外車に乗って帰って行くのを見て、『15分しゃべってロールスロイスやポルシェに乗れるなんて、ええ商売や。おれはぜったいコレになる』と思ってしまって……(笑い)」
つてを頼って吉本興業に入ったが、下積み時代の生活は苦しかった。
「新婚生活は4畳半のアパートを借りてスタートさせました。妻も働いていたけれど、最初の1年半くらいはしんどい思いをしました。同じ頃吉本に入った間寛平がよく遊びに来て、腹が減ったけど金がない。食材は食べ尽くしてしまって冷蔵庫にあったケチャップとマヨネーズを寛平とふたりで人差し指につけて舐めているのを見つかって、嫁さんに『何してるの、あんたたち!』と怒られたこともあった(笑い)」
多くの夫婦問題にかかわってきた夫婦問題研究家の岡野あつこさんは、駆け落ち後、シビアな現実に直面するケースは多いと指摘する。