「眞子さまがニューヨークで新生活を始められるように、一般に駆け落ちは親や友人たちと離れて遠くに行く。するとゼロからのスタートで収入が減る上にお金もかかるし、環境の変化による不便さや経済的な問題が噴出する。
最初こそ愛し合うふたりでいられるならばカップラーメンをすすっても幸せ、とその環境を楽しむことができますが、時間が経つと価値観の違いが浮き彫りになり夫婦げんかになることが多い。みんなに祝福されて頼れる人が近くにたくさんいる環境と、誰も知らず『どこから来たんですか?』と聞かれることからスタートする環境では、後者の方が圧倒的につらいのは自明でしょう」
そうした状況を切り抜けるには、男の本気度が必要と岡野さんが続ける。
「すべてを捨てて結婚しようとするとき、女はもとより本気に決まっているから、どれだけ男がリーダーシップを張れるかが大事です。親や世間から何と言われようが妻を守る、という気概を持てるかどうかが、駆け落ちした後の命運を分けます」
洋七も謙遜しつつこう振り返る。
「確かに、別れようと思ったことは50年で一度もないし、とにかく途中で投げ出さずにふたりで幸せになれるように頑張ろうという一心だった。嫁さんも大阪に出てきてすぐに働き始めたし、諍いが起きたこともなかった。
ただ、ぼくらが成功したのは、ふたりともあまりいろいろ考えすぎなかったこともよかったんだと思う。あんまり頭がいいと、いろんなことを考えてしまうから。つらい生活を乗り切るためには、適度にアホな方がいいのかもしれないね(笑い)」(洋七)
幸せな家庭を作るため、前を向いて生きたふたりには、親族たちとの関係に“雪解け”のときがやって来た。洋七と妻が大阪で迎えた最初の冬、4畳半のアパートに妻の実家から布団が届いた。そこには、「ふたりで頑張れよ」という義父からのメッセージが添えられていた。
「ぼくは知らんかったけど、嫁はちょくちょく公衆電話で実家の親と話していたみたいです。あれだけ反対していたお義父さんが心配してくれたことがうれしゅうて。でもまだそのときは完全に許してもらえたわけではなかったから、布団を励みにしてとにかく漫才に取り組んだ。そしたら2年後にNHKの漫才コンテストで最優秀話術賞を受賞できた。普通、漫才なんて九州のテレビには映らんけど、NHKは全国で映るやん。
優勝したシーンをお義父さんが見て、嫁に『ここまで頑張ったなら、結婚を許してもええやん』と言わはった。そこから3年くらい経った頃にぼくらが東京に進出して、西城秀樹さんや野口五郎さんが出る人気歌番組でコントをするようになったとき、お義父さんから『頑張っとるな』と手紙が来て、そこでようやく和解できたと思いましたね」(洋七)
※女性セブン2021年10月28日号