2021年に行われた東京五輪の興奮は記憶に新しいが、熱狂の度合いで遥かに上回ったのが1964年の東京五輪。「東洋の魔女」が金メダルに輝いたソ連戦のテレビ視聴率は66.8%を記録し、この数字は、スポーツ中継の“史上最高記録”として令和の今も破られていない。
日本中が熱狂した「東洋の魔女」の活躍は、アニメ『アタックNo.1』やドラマ『サインはV!』などの作品を生み、空前のバレーボールブームに沸いたが、日本国民の3分の2以上が歓喜した瞬間から、チームはそれぞれの道を歩み始めた。メンバーの幸せに向かって奔走し、政治の世界で志を遂げようとする“リーダー”。時に彼を支え、自らは家庭を築き、充実した人生を送る“魔女たち”。それぞれの“その後”を追った。(前後編の後編)
五輪の翌年、監督の大松はニチボー貝塚を退社。後を追うように魔女たちも大半が引退・退社した。チームの長女的な存在だった名セッター河西昌枝は、五輪翌年にニチボーを退社。同年に陸上自衛隊の中村和夫二尉と結婚し、3人の子宝に恵まれている。大松をして「日本刀の切れ味」と言わしめた左のアタッカー・宮本恵美子も翌年に結婚。茨城県日立市でママさんバレーの指導などに従事した。
1960年の世界選手権からニチボー貝塚のエーススパイカーとして活躍した谷田絹子は五輪の3年後に引退。女優の淡島千景の事務所職員などを経て、30歳の頃に地元・大阪に戻り結婚。バレーコーチとして活動する一方、手芸や編み物といった趣味にも力を入れた。
ニチボー東京所属時に大松に見いだされた半田百合子は、五輪の翌年に結婚。大学の体育講師を経て宝飾会社に転職した。
「店長としてお店の立ち上げなどに携わりました。男社会で大変なこともありましたけど、定年まで働くことができました」(半田)