江戸っ子が好んだ鯛、鯉、鰹
1日1000両もの金が動くと言われた日本橋魚河岸には、江戸湾や相模湾で獲れるさまざまな魚介類が持ち込まれた。
最も高額で取引されたのは初鰹で、食べると750日寿命が延びると言われ、1匹3両もの値がついたことも。鯉とともに一番人気の鯛は、祝いの席に欠かせない縁起物。いざという時に困らないよう、幕府管轄の「活鯛屋敷」という大きな生簀で飼われていた。
江戸前の四天王はファストフード
蕎麦、鰻、寿司、天麩羅を「江戸前の四天王」と呼ぶ。現在でも和食を代表するこの4品は、江戸の屋台で確立された、いわば江戸のファストフードだ。
麺状の蕎麦が庶民の間で食べられるようになったのは江戸中期のこと。それまでは蕎麦粉を練って作る「蕎麦がき」が主流だった。麺状のものは「蕎麦切り」と呼ばれ、寺の饗応料理の〆などに出されていたが、つなぎにうどん粉を使うようになって普及した。
鰻の人気に火がついたのは「土用丑の日」の張り紙のおかげだった。「う」のつくものを食べれば夏バテしない、という言い伝えに乗って、夏場に人気のなかった鰻を売ることに成功したのだ。川に流れ込む江戸の下水は栄養豊富であったため、江戸前の鰻は大きく、脂が乗っており、蒸してから焼くようになった。また切腹につながるからと、背開きにした。鰻屋の離れは「焼きあがるまでご自由に」と逢い引きにも使われた。
握り寿司が誕生したのは、1820年以降のこと。せっかちな江戸っ子に合わせて、押し寿司をより早く提供するため、握った酢飯にネタを乗せて出すようになった。ミツカンの初代・中野又左衛門が、酒粕で造った安価で旨味のある粕酢を江戸で販売するようになったことが、握り寿司ブームのきっかけとなり、全国に広がった。
天麩羅は16世紀にキリシタンが伝えた、初の西洋料理。18世紀後半に揚げ油が普及し、庶民の口に入るようになった。天麩羅と呼べるタネは車海老、穴子、鯊、ばか貝などの魚介類のみで、野菜は精進揚げと呼ばれた。