ライフ

【逆説の日本史】君臣の立場を超えた「主君と郎党」の関係にあった明治天皇と乃木希典

作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』(イメージ)

作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』(イメージ)

 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第九話「大日本帝国の確立III」、「国際連盟への道 その5」をお届けする(第1338回)。

 * * *
 明治天皇は朱子学的名君だったと言うと、それでは中国皇帝と同じではないかとの誤解を招くかもしれない。もちろん同じでは無い。日本の天皇は日本古来の神道と朱子学の融合の上に立つ存在である。だから、朱子学だけしかない中国ではきわめて困難であった四民平等(士農工商の廃止)も、日本は明治維新とともに容易に実行することができたのである。

 中国皇帝と日本天皇はまったく別のものなのだが、天皇に朱子学的要素は当然ながらある。そして明治天皇を名君にしたのは朱子学の最良の部分であり、それは元田永孚の進講や山岡鉄太郎ら侍従の献身によって天皇の骨となり肉となった。具体的に言えば、それは君主としての徳を積み、その徳義によって国家国民を導くということである。だから、文芸評論家の福田和也は著書で次のように述べている。

〈乃木を愛されたのも、乃木が自らの徳義によって、帝国陸軍を支えるという決意をし、それを貫こうとしていたからにほかならない。明治天皇は、快活、剛毅なお人柄であったけれども、乃木が有徳な人物となるために、どれほど凄惨な努力を重ねてきたかを理解されていた。有能な人材よりも、有徳な人物の方が得難く、貴重だと考えた。〉
(『乃木希典』文藝春秋刊)

 そのとおりだろう。明治天皇と乃木は、大日本帝国憲法の規定する君臣の立場を超えた「主君と郎党」であり、君主は徳義の人でなければいけないという共通の思いを持つ「同志」だ。だからこそ、皇孫(裕仁親王。のちの昭和天皇)の教育を任せられるのは乃木しかいない。大変残念なことに、ドナルド・キーンは乃木が学習院の院長に任命されたことを一種の左遷ととらえているようだが、実態は左遷どころか抜擢である。乃木しかいないのだ。

 ひょっとしたら、なぜ教育の対象が当時の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)では無く、その嫡子である皇孫になったか不思議に思う向きもあるかもしれないが、それは簡単で嘉仁親王は病弱で明治天皇が山岡鉄太郎に受けた「教育」などは到底不可能だったからである。大正時代がたった十五年しかなかったのもそれが理由だ。

 乃木は郎党としての失態、つまり田原坂における軍旗の紛失の責任を取っていずれは自決しようと考えていた。だが、明治天皇に皇孫の養育を頼まれた以上死ぬわけにはいかない。そこには当然、自分のほうが先に死ぬだろうからその時点までご奉公すればいいという考えもあっただろう。

 ところが、自分より三歳年下の天皇のほうが先に亡くなってしまった。こうなれば、すぐに殉死するほかは無い。では、明治天皇から託された皇孫殿下の教育はどうすればいいだろうか。最後にこれだけは伝えておきたいということが乃木にはあった。乃木は殉死を決行する二日前、御所に参内した。正確に言えば、御所の一角に設けられた先帝の殯宮(遺体の安置所)には毎日しかも朝夕二回参拝していたのだが、その前日に明日は早朝皇孫殿下いやこの時点ではもう皇太子の迪宮裕仁親王に拝謁したいと申し入れていた。もちろんその願いは聞き届けられたのだが、乃木はそのとき自ら書写した山鹿素行の『中朝事実』を献上し、まだ十二歳の皇太子に難解な漢語を交えて小一時間その内容を解説した。皇太子は最後まで立ったままそれを聞いた。

〈希典の講述はおわった。このとき皇儲の少年は、不審げに首をかしげた。
「院長閣下は」
 といった。かれは乃木とよばずこのような敬称をつけてよぶようにその祖父の帝の指示で教えられていた。
「あなたは、どこかへ、行ってしまうのか」
 少年はそう質問せざるをえないほど、希典の様子に異様なものを感じたのであろう。(中略)
「いいえ」
 と、それをあわてて否定した希典の声も、廊下まで洩れた。〉
(『殉死』司馬遼太郎著 文藝春秋刊)

 この作品は一応「小説」だが、実録に基づいている。二人のやり取りが「廊下まで洩れ」ていたからだ。この後、乃木は殉死の意図を隠し退出したが、遺言代わりに皇太子に渡した『中朝事実』とはいかなる書物か? この『逆説の日本史』シリーズの古くからの読者には説明する必要があるまい。いまから十年以上前の話だが、『逆説の日本史 第十六巻 江戸名君編』に私は次のように書いた。

〈中国の君主つまり皇帝こそ世界唯一の至高の存在である。この後に日本人はこれに反撥して「日本こそ中国(=世界で一番優れた国)だ」と主張するようになり、たとえば山鹿素行は『中朝事実』などという本を書くようになった。「中朝」とは「中国」のことであり、直訳すれば「中国の歴史」ということだ。しかし、素行がこの中で「中国」と呼んでいるのは、実は日本のことなのである。〉

 なぜ日本は中国なのか。そのことも愛読者にはおわかりだろうが、念のために繰り返すと中国においては王朝交代つまり新しい皇帝の就任を、実際には「ケンカに強いやつ」が勝っただけなのに「天命による易姓革命だ」などとごまかす。

 しかし、日本の天皇は違う。日本は神の子孫である天皇が、その神徳をもって断絶すること無く神代の昔からこの国を治めている。つまり、中国の皇帝はすべて朱子学の言う覇者(武力と陰謀で天下を取った偽の君主)だが、日本の天皇はすべて王者(徳をもって世の中を治める真の君主)だ。だからこそ日本のほうが本当の中国なのだ、という考え方である。

関連記事

トピックス

公選法違反で逮捕された田淵容疑者(左)。右は女性スタッフ
「猫耳のカチューシャはマストで」「ガンガンバズらせようよ」選挙法違反で逮捕の医師らが女性スタッフの前でノリノリで行なっていた“奇行”の数々 「クリニックの前に警察がいる」と慌てふためいて…【半ケツビラ配り】
NEWSポストセブン
「ホワイトハウス表敬訪問」問題で悩まされる大谷翔平(写真/AFLO)
大谷翔平を悩ます、優勝チームの「ホワイトハウス表敬訪問」問題 トランプ氏と対面となれば辞退する同僚が続出か 外交問題に発展する最悪シナリオも
女性セブン
日本一奪還に必要な補強?それともかつての“欲しい欲しい病”の再発?(時事通信フォト)
《FA大型補強に向け札束攻勢》阿部・巨人の“FA欲しい欲しい病”再発を懸念するOBたち「若い芽を摘む」「ビジョンが見えない」
週刊ポスト
2025年にはデビュー40周年を控える磯野貴理子
《1円玉の小銭持ち歩く磯野貴理子》24歳年下元夫と暮らした「愛の巣」に今もこだわる理由、還暦直前に超高級マンションのローンを完済「いまは仕事もマイペースで幸せです」
NEWSポストセブン
ボランティア女性の服装について話した田淵氏(左、右は女性のXより引用)
《“半ケツビラ配り”で話題》「いればいるほど得だからね~」選挙運動員に時給1500円約束 公職選挙法で逮捕された医師らが若い女性スタッフに行なっていた“呆れた指導”
NEWSポストセブン
傷害致死容疑などで逮捕された川村葉音容疑者(20)、八木原亜麻容疑者(20)、(インスタグラムより)
【北海道大学生殺害】交際相手の女子大生を知る人物は「周りの人がいなかったらここまでなってない…」“みんなから尊敬されていた”被害者を悼む声
NEWSポストセブン
医療機関から出てくるNumber_iの平野紫耀と神宮寺勇太
《走り続けた再デビューの1年》Number_i、仕事の間隙を縫って3人揃って医療機関へメンテナンス 徹底した体調管理のもと大忙しの年末へ
女性セブン
チャンネル登録者数が200万人の人気YouTuber【素潜り漁師】マサル
《チャンネル登録者数200万人》YouTuber素潜り漁師マサル、暴行事件受けて知人女性とトラブル「実名と写真を公開」「反社とのつながりを喧伝」
NEWSポストセブン
白鵬(右)の引退試合にも登場した甥のムンフイデレ(時事通信フォト)
元横綱・白鵬の宮城野親方 弟子のいじめ問題での部屋閉鎖が長引き“期待の甥っ子”ら新弟子候補たちは入門できず宙ぶらりん状態
週刊ポスト
大谷(時事通信フォト)のシーズンを支え続けた真美子夫人(AFLO)
《真美子さんのサポートも》大谷翔平の新通訳候補に急浮上した“新たな日本人女性”の存在「子育て経験」「犬」「バスケ」の共通点
NEWSポストセブン
自身のInstagramで離婚を発表した菊川怜
《離婚で好感度ダウンは過去のこと》資産400億円実業家と離婚の菊川怜もバラエティーで脚光浴びるのは確実か ママタレが離婚後も活躍する条件は「経済力と学歴」 
NEWSポストセブン
被告人質問を受けた須藤被告
《タワマンに引越し、ハーレーダビッドソンを購入》須藤早貴被告が“7000万円の役員報酬”で送った浪費生活【紀州のドン・ファン公判】
NEWSポストセブン