いまも残る「妻返しの松」
司馬遼太郎の「乃木愚将論」については『逆説の日本史 第二十六巻 明治激闘編』でも詳しく述べたとおり、まったく賛成できない。しかし、皮肉なことだが乃木の内面や人間像についてはその分析は見事である。たとえば、いまひとつわかりにくい主君と郎党の関係について司馬は前出の『殉死』で次のように述べている。
〈郎党であるということは、どういうことなのであろう。
一種の錯覚がなければならない。狂言における太郎冠者がそのあるじの大名に対するように、あるいは『義経記』の武蔵坊弁慶がその主人の義経に対するように、自分という自然人の、自然人としての主人が帝であるとおもわねばならなかった。(中略)かれが帝をおもうときはつねに帝と自分であり、そういう肉体的情景のなかでしか帝のことをおもえなかった。希典は、つねに帝の郎党として存在していた。〉
明治の文学者たちは、すべてが乃木希典の殉死をこのような視点でとらえたわけでは無い。すでに紹介したように森鴎外はこれに肯定的だったが、新しい世代の代表ともいうべき芥川龍之介は短編小説『将軍』にあきらかに乃木をモデルにしたN将軍を登場させ、「モノマニアックな眼」をした「殺戮を喜ぶ」人間として描いた。
さらに興味深いのは、この作品が発表された一九二一年(大正10)の時点では、ある意味で乃木の軍人としての優秀さを証明したとも言えるヴェルダン要塞攻防戦はすでに終わっているのにもかかわらず、芥川はむしろ多くの兵士を無駄死にさせた無能な将軍として乃木を描いているのである。ちなみにこの作品は当時の検閲に引っかかり、かなりの部分で伏せ字が見られる。原稿は失われてしまったので再現することはできないが、それがあれば芥川の乃木批判の姿勢がより明確になっただろう。
夏目漱石は、少なくとも批判的では無い。その代表作『こゝろ』では最後の最後で主人公が自殺をするのだが、その主人公が乃木に対して共感する部分がある。それは、主人公が新聞で乃木の自殺の理由が若いころの軍旗紛失にあると知ったことに続く描写である。
〈乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえてきた年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、何方が苦しいだろうと考えました。〉
(『こころ』新潮社刊)
この後、主人公は長年抱えていた心の悩みを清算するために自殺する。乃木の殉死を漱石がまったく評価していないのなら、こういう文章にはならないだろう。
ところで、乃木希典の生涯については肯定的な人も否定的な人もいるわけだが、肯定的な人々の間にあっても唯一批判的なのが、静子夫人に対する態度である。そもそも乃木は結婚するつもりは無かった。明治十年の少佐時代から内心いずれ自決すると決めていたからである。しかし、周囲は独身の少佐を放ってはおかない。また当時は優秀な男児を儲け、家を保ち、国家に尽くすのが国民そして軍人としての道だという考え方もあったので、乃木は周囲から執拗に結婚を勧められ何度も断っていたが、とうとう面倒くさくなったのか「薩摩の娘ならよい」と答えてしまった。
言うまでも無く、乃木は長州出身である。その乃木がなぜ「薩摩の娘」と言ったかと言えば、陸軍部内における長州閥と薩摩閥の対立抗争に嫌気がさしていたからである。どこでもそうだが、「閥」というグループは同じグループ内での婚姻で結束が固まることが少なくない。平たく言えば、長州出身の軍人は長州から嫁をもらうのがあたり前だということだ。乃木はこうした傾向を苦々しく思っていた。そこで長州出身の自分が率先して薩摩の娘をめとれば、派閥抗争に歯止めがかかると考えたのである。
たしかに考え方は「立派」かもしれないが、これでは妻は「産む機械」にされてしまう。実際そうなった。しかし周囲は、「乃木もとうとう身を固める気になったか」と大喜びして嫁の世話をした。
乃木夫人となった女性は、元の名を湯地七(シチ)といった。七人兄弟の末っ子として生まれたからである。生家は薩摩藩の藩医の家柄である。長兄は定基といい、勝海舟の愛弟子だった。その縁でアメリカ留学し帰国後は新政府に出仕した兄に呼び寄せられ、彼女は東京で女学校を卒業した。そして日露戦争において乃木司令官の参謀長だった薩摩出身の伊地知幸介(あの水師営の会見の写真にもステッセルと一緒に写っている)の強い勧めによって乃木に嫁いだ。
乃木はお七という名前は八百屋お七を連想させてよろしくないと、自分の号「静堂」から一字をとって「静子」という名前を与えてくれたが、決して優しい夫では無かった。結婚式の日は外で散々酒を飲んだ挙句、招待客をおおいに待たせ泥酔状態で帰ってきた。子供は四人生まれたが二人は嬰児のときに夭折し、成人した長男と次男も日露戦争で戦死した。このとき、乃木がわざわざ危険な前線に二人を配置したのはすでに述べたとおりである。それに長男は軍人になることを好まず散々抵抗し静子もそれを支持したのだが、乃木は結局それを押し切って軍人の道を選ばせたという話も伝わっている。