店のメニューやサービス内容の構想を練るのはもちろんのこと、全世界に広がるBenihanaとそこで働くスタッフ一丸となることに注力したという。
「ロッキーさんはよく『会社には(統制する)ひとつの声が必要だ』と言っていました。私には会社を統制する責任があったので、フランチャイズ同士で交流する場として年に1回、全世界のBenihanaの責任者が一堂に会する交流会を設けました。毎年ホテルを貸し切って3泊4日で勉強会や報告会などのスケジュールを組み、まさにファミリーのような連帯感を築いたんです。これはBenihanaグループにとって大きな功績を残せたと思っています」(恵子さん)
50代から60代の間、世界各地を飛び回りBenihanaを統制していくのは体力的にはかなりキツかったという。そして当初の“なんとか10年やっていこう”という区切りでBenihanaの売却を決意する。
「2018年、夫も親しくしていたタイの一大外食チェーン企業のマイナー・インターナショナル社にBenihanaの75%を売却し私はその1年半後にCEOを退任しました。10年という区切りもありましたが、“Benihanaをさらに世界中に広げること”は、今後はすでにマーケットを持っているところが進めるのが良いと思ったので悔いはありません。しかもその後、コロナ禍になって…私があのままやっていたら確実に潰れていたかもしれないと思うと、良いタイミングでした」(恵子さん)
30代からビジネスの才能を発揮
そもそも、ロッキー氏と結婚する前の恵子氏にはどんな背景があったのか。大富豪に見染められた玉の輿だったわけではなく、恵子氏もまた実業家だった。
「山脇学園短期大学卒業後にハワイ大学に留学し、在学中にNY在住の日本人ビジネスマンと結婚してグリーンカードを取得したんです。色々あって1年半ほどで別れましたが、日本に帰ろうとは思いませんでした。NYのセレブマダムたちの交流の場だった“主婦の友”の理事に気に入られて五番街にオフィスを借りたんです。初めて入った依頼が“日本で毛皮を売ってくれないか”というものでした。1990年のことです」(恵子さん)
当時、アメリカ経済は不景気で毛皮の販売が落ち込んでいたという。一方の日本はバブル景気の真っ只中。恵子氏は初めて挑戦したビジネスでいきなり大成功を収める。
「都内の毛皮店の方から“アメリカで1万ドルの毛皮が日本では7倍の値段で売れている”ことを聞き、NYの毛皮屋からサンプル品を借りてニューオータニのスウィートルームを3日間貸し切り毛皮の展示会を開催しました。会場ではお客様の契約だけいただいて商品は後日発送する方法で売上はなんと5000万円! 毛皮の並行輸入は恐らくですが、私が初めて成功したんです。これは嬉しかったですね」(恵子さん)
しかし、恵子さんは浮かれなかった。高価な毛皮のコートは1人が2着も3着も買うものではない。これは長くは続かないと“次は何を売ろうか”と目を光らせていたという。