退職時、その社員に秘密保持誓約書に署名捺印させていた。前の会社の情報を手土産に転職するというドラマのような話が自分の身に振りかかると予想だにしなかったが、万が一のことを考えたという。だが秘密保持誓約書の作成には、ネットなどで検索すればすぐに出てくる大雑把な誓約書の雛型をそのまま使っていたのだ。社員の転職先が競合する事業者でなかったことも、簡単な雛型を使ってしまった一因だった。
訴訟を起こしたものの、裁判に勝てなかった敗因はここにあったと、社長は振り返って悔しがった。条項の中に、秘密保持の確認として、社で知り得た情報や関係資料はすべて返還し、自らは保有しないことという旨の文言があった。だがこのような文言は、裁判では落とし穴になりやすいのだと、こうした情報漏洩の裁判事情に詳しい専門家はいう。
「情報や関係資料を定義する範囲が広過ぎた。実際に何が秘密保持の情報になるのか特定しておくことが必要だ。会社の情報であれば、何から何まで秘密というわけにもいかない。このような書き方で、カバーできる範囲を大きくしておけば安心と思うかもしれないが、これだと退職者に重要機密を持ちだされ、いざ裁判に持ち込もうとしても、秘密情報が明確に定められていないということで、誓約書の効力が認められず負けてしまう場合がある」
また、かなり前になるが、ある大手人事コンサルティング会社の社長から、米国に本社を持つ製薬会社の人材採用担当者を紹介され、相談にのってほしいと言われたことがあった。当時、医療関係のリスクマネジメントを行っていたからだ。なんでも糖尿病の専門医を自社で採用したいのだという。条件は1つ、治験に参加している専門医。奇妙な条件に違和感を覚えた。詳しく聞いていくと、当時その製薬会社では新しい糖尿病の治療薬を開発中だった。日本は業界で糖尿病大国とよばれるほど患者数が多い国である。マーケットとしては大きな利益を得ることができる国でもある。そのため日本の製薬会社でどんな治療薬が開発されているのか、情報が欲しかったのだ。
製薬会社の情報に関する危機管理は厳しい。万が一販売前に情報が流出し、他社に先を越されてしまうと、投資してきた莫大な費用が回収できなくなってしまうため、漏えいリスクは桁違いになるからだ。製薬会社から機密情報を入手するのは困難であるが、開発中の薬に関する情報を知る医者からなら入手できるのではないかと考えたようだ。新手の産業スパイだと思い、もちろんその場で断ったが、情報が欲しい企業はどんな手でも使ってくるのだと再認識させられた。
人が動くとそこには様々なリスクが伴う。リスクは人からだ。