1990年代に現れ、お茶の間を席捲したバンド『たま』。その中心メンバーともいえる石川浩司(61)さんは印象的なランニング姿で、ボーカルとパーカションを担当していた。1989年に放送された深夜番組『三宅裕司のいかすバンド天国(以下、イカ天)』(TBS)での活躍は今でも語り継がれる。
今年7月に出版された漫画『「たま」という船に乗っていた』(双葉社)の原作者でもある石川さんに、激動の時代を駆け抜けてきたあの時代のエピソードを語ってもらった。【前後編の後編。前編から読む】
『イカ天』の出演で注文が殺到。発送業務をしていたのは朝ドラ脚本家
──メジャーデビュー前に所属していたナゴムレコード(注:劇作家でミュージシャンのケラリーノ・サンドロヴィッチが創立したレコードレーベル)の中では、たまはどういう存在でしたか。
「僕ら以外はかっこいいバンドが人気でしたね。たまのファンの人って、自分から『ファンです』ってあんまり言わないんですよ。カステラ(1990年代初頭に活動していた早稲田大学出身のロックバンド)と対バンした時に、みんなカステラ目当てのお客さんだろうと思っていたんです。それなのにインディーズでレコードを出したら、たまが1位になって。“俺たちにもお客さんがいたんだ”って驚いたり(笑)。それが『イカ天』で爆発した感じですね」
──『イカ天』でブレイクして、レコードが売れたそうですが……。
「それまでは1日に数件の注文だったのが、たまが『イカ天』でブレイクした途端、一日に何千件の注文が来てしまって、スタッフが1人しかいないから処理しきれない。当時のナゴムレコードは、スタッフが一人しかいなかったんですよ。それが、のちにNHKの朝ドラの脚本を書くことにもなった水橋文美江さんだったんです」
──そんなお方が、スタッフでいたのですね。当時は売上などどうされていたのですか?
「ナゴムはね、基本的に演奏をしたバンドにほぼお金が入っていないんですよ。これだけ売れたら何%をバックするという契約もしていなかったからね。ケラさんはレコードが売れると、そのお金は売れないバンドのCDを出すのに使うって方式だった。少々売れても僕にはおそらく1円も入っていないんですよ。でもケラさんには色々とお世話になっているからね」