取り返し得ぬ出来事
石原さんには『わが人生の時の時』(1990年刊)という四〇の掌篇を一冊にまとめた名作があります。
ついこのごろのことである。銀座八丁目の吉井画廊に架かっていたある版画の前で釘付けになった。太く力強い墨の筆のようなタッチのジョルジュ・ルオーの版画だ。少し老いた男が憂いを込めた眼でじっと前方を見つめている。眼差しは未来を見ているのか過去を見ているのかいっけんわからない。強い視線の焦点はどちらにも向けてあるように見える。
タイトルは、ボードレール詩集の一節から採った「取り返し得ぬもの」、ルオーの「『惡の華』─十四枚の原版画」シリーズの一枚でした。
その版画はいま僕の西麻布の仕事場に架けてあります。
人生は取り返し得ぬ出来事に満ちている。
石原慎太郎の名著のタイトル『わが人生の時の時』のように、いま僕自身はこうして石原さんとの想い出の時を記している。そして来月、『太陽の男 石原慎太郎伝』(中央公論新社)を上梓する。一周忌に墓前にお届けできるように。
※週刊ポスト2022年12月23日号