「それまでも、スポーツ選手とかお医者さんとか、100人以上に話を聞いて、ゴーストライターとして本をつくってきたんですけど、著名人ではない、市井の人の話がこんなに奥深いのか、ということを、『東京の台所』の取材で初めて知りました。正直に言うと、途中でちょっと飽きた時期もあったんですけど、いまは、とんでもない、全然、筆が足りていない、書き切れてなかったわ、と思っています」
全然書き切れていない、という気持ちは、取材すればするほど強くなるそうだ。
「2時間程度の取材でその人の何がわかるんだろう。人を描くってどういうことなんだろう、って。ウェブの取材では聞き切れなかったことや、あの人のその後はどうなっただろう、といったジレンマを書籍で解消しているところもありますね」
本当に書いちゃっていいの?って何度も聞いたら──
取材した相手から連絡がくることもある。今回の本で一番初めに出てくる家族は、前に取材した女性から紹介された。元の隣人にあたり、旦那さんが大腸がんの闘病中で、大平さんに取材してほしいとメールに書かれていた。
取材する日を決めたが、残念ながら旦那さんはその前に亡くなってしまう。最後までよく食べ、よく飲み、家族とともに過ごした人の姿を、妻から聞くことになった。
「喪失と再生」という今回のテーマは、シリーズ2冊目の『男と女の台所』を読んだ人からヒントをもらった。
「あるラジオ番組のビブリオバトル(書評対決)の企画で、『男と女の台所』をプレゼンして勝った人がいたんです。彼は最近、お父さんを亡くしていて、亡くなる前に一度だけ、すき焼きをつくって食べてもらったことを本を読んで思い出した、って。台所は喪失の場所でもあるんだと、それで気づきました」
連載が続くなかで、サイトでも取材に応じてくれる人を募集するようになり、応募してきた人に話を聞くことも増えた。
「二一歳春。実母と縁を切る」で描かれる女性も、応募してくれた1人。精神疾患を持つ母と、ネグレクトぎみの祖母のもとで育った。
1人で暮らすようになって初めて料理を覚えた彼女の小さなアパートに、立派な冷蔵庫があった。肉親に頼れない彼女をひそかに支えた市役所の職員が手配したものだった。
「公務員って悪いことをしたときぐらいしか報道されないけど、そうやって、陰で支える人もいるんですよね。彼女の場合は、どこで突き止められるかわからないから、本当に書いちゃっていいの?って何度も聞いたんです。そしたら、『来週引っ越して、メールも携帯番号も全部変えるから書いちゃってください』って。そのぐらいの覚悟で応募してくれたんですね」
最後の「続・深夜の指定席」には、「東京の台所」の取材第1号だった、大平さんの友人が登場する。当時、事実婚だったパートナーの病気をきっかけに婚姻届を出し、彼の死後、1人で暮らす、同じ部屋の、同じ台所だ。
「私ね、『東京の台所』の取材を始めるまで、世の中には何事もなく生きている人がいると思ってたんですけど、今は、ああ、1人もいないわ、って思うんです。みんな何かしら、痛みや悲しみを抱きしめて生きていくんだ、って。台所を10年取材して、つくづくわかったことですね」
【プロフィール】
大平一枝さん(おおだいら・かずえ)/文筆家。長野県生まれ。日本福祉大学女子短期大学(1996年廃止)卒業。編集プロダクションを経て1994年にライターとして独立。朝日新聞デジタルマガジン「&w」で「東京の台所2」を連載中。著書に『ジャンク・スタイル』『東京の台所』『男と女の台所』『ただしい暮らし、なんてなかった。』『届かなかった手紙』ほか多数。
取材・構成/佐久間文子
※女性セブン2023年2月2日号