ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第九話「大日本帝国の確立V」、「国際連盟への道3 その12をお届けする(第1367回)。
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西園寺公望が第二教育勅語発布を断念した経緯は、保守派の妨害でも無ければ西園寺自身の病気によるものでも無い。病気は完治したし、その後西園寺は総理大臣にもなった。だから病気は「保留」の原因になっても、「断念」の理由にはならない。
やはり伊藤博文が止めたのだろう。理由は、日露戦争を勝ち切るまでは「外国との融和」を重んじる第二教育勅語は時期尚早であり、「国民の団結」を訴え戦争遂行に有利な第一教育勅語だけでよいと伊藤は判断し、おそらく「もうしばらく時節を待て、発布の時期はわしに任せろ」と西園寺を説得したと私は考える。
なぜそう考えるかと言えば、一時は新聞社の社長になってまでも欧米型の開かれた社会を作ろうとしていた西園寺が、その最適の手段である第二教育勅語発布をそう簡単にあきらめるはずが無いからだ。これまでの所論は、あまりにも政治家の信念というものを無視している。明治天皇も暗黙の了解を与えていた。だから西園寺の腹心竹越与三郎は「枕頭閣議」などという非常手段を使ってまで第二教育勅語発布を急ごうとした。
仮にも「勅語」である、一臣下の忖度によってどうこうできるものでは本来無い。天皇の支持が無ければ、こうした手段に踏み切れるものでは無い。そして、それでもそれを止められるのは同じく天皇の信頼篤かった伊藤しかいない。
では、なぜその後、西園寺は発布を完全に断念したのだろうか? おそらく、伊藤が暗殺されてしまったからだろう。私は歴史学者のように史料絶対主義者では無い。その代わりに当時の人々の思想・信条を重視し、その時代の人間になったつもりで考える。現代の考え方から言えば、伊藤が死んだことは第二教育勅語発布の最大の障害が無くなったことになり、かえって発布が促進されるはずだということになるだろう。
だが、もう一度言うがそれは現代の考え方である。西園寺にとって伊藤は兄貴分で尊敬すべき大先輩であり、政界に導いてくれた大恩人でもある。その人間と交わした約束は守らねばならない。それは、たとえ相手が死んでも、だ。いや、死んだらなおさら守らねばならない。相手が死んだら約束は無効になるなどとは絶対に考えてはならないのだ。それが当時の人々の道徳観念である。
だからこそ私は、二人の間に「発布の時期は伊藤に任せる」という約束があったと考えるのだ。しかし、伊藤の死によって発布が事実上不可能(発布時期の判断を下せる者がいない)になった。では、どうするか? なにか別の手段を考えるか、第二教育勅語を新規に策定するかだ。新案を発布に持ち込むのなら、伊藤との約束を破ることにはならない。
しかし、西園寺にはその余裕が無かった。伊藤が暗殺されたのは、前にも述べたように一九〇九年(明治42)十月二十六日である。仮にこの時点で西園寺が「新・第二教育勅語」の策定を思い立ったとしても、少なくとも一年はそれを実行に移さなかったろう。なぜかおわかりだろうか? これもいまでは忘れ去られた感覚だが「喪に服する」ということだ。「伊藤が死んだ。これで第二教育勅語を出せるぞ」などとは絶対に考えてはいけないのである。