日本人の良識を示した西園寺の演説
ここで、政友会誕生に至る日本政党史をごく簡単に述べておこう。日本最初の本格的な政党は自由党で、国会開設以前の一八八一年(明治14)に板垣退助を中心に結成された。しかし三年ほどで内紛が起こり解散するが、一八九〇年(明治23)の第一回総選挙後に当選した議員たちが自由党の名を復活させた。そして一八九八年(明治31)には大隈重信率いる進歩党と合同し、憲政党に改称。この憲政党が、日本最初の政党内閣である第一次大隈内閣を実現させた。別名「隈板内閣」というのは、大隈重信が首相兼外相で板垣退助が内相に就任したためである。しかし、路線の対立から内閣は瓦解した。
ただし、憲政党自体はその後も生き残り山県内閣に接近を図ったが、政党嫌いの山県は憲政党議員を入閣させなかった。そこで、そのころから日本を政党政治の国にしようと考えていた山県のライバル伊藤と憲政党が結びつき、政友会(正式名称は立憲政友会)が結成された。初代(総裁は伊藤で、総選挙での勝利を背景に総理大臣となり第四次伊藤内閣を成立させた。
注意すべきは、まだ議会の第一党の党首が総理大臣になるというルールは確立されていないということだ。そして、この内閣で伊藤は西園寺を総理大臣臨時代理に抜擢した。伊藤は同時期に日韓併合という厄介な問題を抱えており、西園寺に国内は任せるつもりだった。だから早い段階で政友会総裁の座も西園寺に譲った。逆に桂は山県の支持のもとに一足先に総理大臣となったわけだが、日比谷焼打事件が起こり桂は西園寺に総理の座を譲って収拾を図ろうとしたわけだ。
だが西園寺は、総理の座が目の前にぶら下がったこの時期に次のような行動に出ている。
〈この時に政友会にも動揺がおこり、民衆の動向に追随して講和条約に対する不満を表明しようとする動きがあったが、西園寺ははやばやと条約のやむをえないゆえんを演説して新聞に掲載させ、また英文の翻訳を外字紙に発表させた。このような不人気の演説を発表すれば政友会が民衆のために破壊されてしまう恐れがあるという者に対しては、西園寺は大いに怒り、国家のためには政友会の一つや二つ破壊されても、省りみるべきでない、速やかに演説を発表して民心を目ざめさせるべきだと言ったという。〉
(『西園寺公望―最後の元老』岩井忠熊著 岩波書店刊)
日本人の良識を示したのは、暴徒に焼き打ちされた國民新聞だけでは無かったのだ。ただし、西園寺の言葉を当時の新聞は黙殺した。そんな意見を載せたら新聞が売れなくなる、からだ。だから大日本帝国を滅亡に導き、多くの日本人を殺し地獄の苦しみを味わわせたのは他ならぬ日本の新聞なのである。それはすでに前出の二十六巻に詳述したところだ。
この良識派、具体的に言えば伊藤と西園寺は、結局山県と桂に負けた。これもすでに紹介したところだが、伊藤は日清・日露戦争の渦中に政権の中枢にいたためだろう、自ら起草に尽力した大日本帝国憲法の「欠陥」に気がついた。この憲法では軍部の独断専行が起こりやすい、という欠陥だ。もちろん、この憲法問題は第二教育勅語問題と基本的に同質で、「改正」という言葉を使えない。欽定(天皇の命令によって定められた)による憲法あるいは天皇の御言葉そのものである勅語に、「改定」つまり「改め正す」ような「誤り」があるはずが無いからだ。だから伊藤は、当初は憲法そのものの「改変」では無く法律の運用によって軍部の独走に歯止めをかけようとした。
このこともすでに『逆説の日本史 第二十七巻 明治終焉編』に詳述したところだ。簡単に繰り返せば、伊藤は帝室制度調査局総裁としての権限で、従来天皇の命令である「勅令」には「天皇の署名と担当大臣の署名(副署)があればよかったものを、総理大臣の副署も必要とした。一九〇七年(明治40)二月一日に公布された公式令である。つまり、それまでは軍部に関する命令は陸相、海相だけ副署すればよかったものを、首相の副署も必須であるとしたのだ。こうすれば軍部の行動に総理大臣が目を光らせることができる。もうお気づきだろうが、この時期政権を担当していたのは第一次西園寺内閣なのである。