“日本プロレスの父”力道山が大相撲からプロレスに転向し、日本プロレスを立ち上げてから2023年で70年が経つ。力道山はすぐに国民的スターとなったが、1963年の殺傷事件で、39年間の太く短い生涯を終えた。しかし、力道山を取り巻く物語はこれで終わりではない──。彼には当時、結婚して1年、まだ21歳の妻・敬子がいた。元日本航空CAだった敬子はいま81歳になった。「力道山未亡人」として過ごした60年に及ぶ数奇な半生を、ノンフィクション作家の細田昌志氏が掘り起こしていく。第10話では敬子が女子高生時代、努力した英語力が花開いたエピソードを明かす。【連載の第10回。第1回から読む】
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第10話「開港百年記念英語論文」
ハリウッドの人気スター、チャールトン・ヘストンからファンレターの返事が来たことは、神奈川県立平沼高校一年生の田中敬子にとって、英語力の自信を抱かせるに十分だった。
この機会に英文法にも取り組もうと敬子は考えた。外交官になるには会話だけ出来ればいいわけではない。筆記と読解は必須で、前年の青少年赤十字大会で出会った都立駒場高校の大宅映子は、欧米の参加者とさほど苦労もなくアドレスの交換をしていた。一学年しか違わないのに随分と差をつけられている。私も負けてはいられない。
そこで敬子は、日ノ出町の山手英学院(現・山手学院中学校・高等学校)に通い始めた。戦後間もない1947年に放課後の小学校の教室を間借りして「山手英語会」として発足したこの英語塾は、1960年代には中高一貫教育の私立学校に発展している。敬子は週3日、部活が終わって夜7時から通った。
「私は小学校のときからお隣の家で話していたから英会話はそれなりに自信があったんだけど、英文法はさっぱり。だからテストだって必ずしも100点取ってたわけじゃないんです。だからこの機会にと思って通い始めたんだけど、部活終わりの夜だからクタクタ。そもそも面白いものでもないんでね」(田中敬子)
しかし、この苦労が思いのほか早くに報われることになる。
敬子が高校2年生に進学した1958年、横浜は「開港百年祭」で例年になく賑わっていた。5月1日からは「記念式典」「パレード」「国際仮装行列」「大漁まつり」「記念バザー」「港湾労務者表彰式」など数々のイベントが開かれた。その一つとして、横浜日米協会と横浜ロータリー、日米教育資料交換委員会の共催、ジャパンタイムズと神奈川新聞の後援で「横浜開港百年記念英語論文」のコンテストが行われた。論文のテーマは「自由国家群との関連において横浜の将来の役割」。神奈川新聞の記事でコンテストを知った敬子は軽い気持ちで応募した。
「どうせ英文の勉強をしてるんだから、練習のつもりで応募したんです。長文だったから、とにかく英文法を間違えなきゃいい。後は前々から自分が思っていることを伝えたい。それだけ考えたの。一応は準備万端で、書き上げたときは満足感と達成感もあったかも。我ながらよく書けたかななんて」