人間は様々な感染症とともに生きていかなければならない。だからこそ、ウイルスや菌についてもっと知っておきたい──。白鴎大学教授の岡田晴恵氏による週刊ポスト連載『感染るんです』より、アガサ・クリスティー『鏡は横にひび割れて』で事件の鍵となる感染症「風疹」についてお届けする。
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ミステリーの女王、アガサ・クリスティーの推理小説に『鏡は横にひび割れて』という作品があります。日本でも1981年に『クリスタル殺人事件』として映画が公開され、エリザベス・テーラーが美しく悲しい主人公を演じました。この殺人事件の鍵となるのが、風疹という感染症です。
風疹は風疹ウイルスの感染による病気で、まず小さな赤い発疹があらわれます。軽度の発熱(あっても38度くらい)、リンパ節(耳の後ろや首)の腫れもありますが、この赤い発疹が主症状です。発疹は3日くらいで消え、ほとんどの場合は予後良好です。
しかし、風疹の免疫のない女性が妊娠初期に罹ると、お腹の胎児にウイルスが感染することがあります。すると、赤ちゃんが目の病気(緑内障、白内障、網膜症など)、難聴、先天性の心臓の病気(動脈管開存症など)、血小板減少性紫斑病(血小板という血液の成分が少なくなり、紫色の斑点が出ます)、低出生体重などの障害をもって生まれることがあるのです(全員ではありません)。
さて、アガサが生み出した名探偵ミス・マープルの住んでいる村に、精神的に不安定になっている名女優マリーナ・グレッグとそれを深い愛情で包み込んでいる映画監督の夫婦が引っ越してきます。
その引っ越し祝いのパーティーの会場に有名女優に一目会いたいと集った人々の中で、ひときわ興奮気味の女性(ヘザー・バブコック)がマリーナに声を掛け、「わたしをおぼえていてくださらないでしょうねぇ」と話し出しました。彼女は以前バミューダにいたとき、マリーナの舞台に駆けつけ、サインをもらいキスをしたことがあったと言うのです。そのとき、ヘザーは風疹で熱を出して寝込んでいたのに、医師が行ってはいけないと言うのを無視し、ピンク色の発疹は厚化粧で隠してマリーナに会いに行ったと言うのです。
一方、マリーナはこのとき妊娠初期でまさに風疹に感染してしまい、彼女の子どもは生まれながらの障害を持ってしまったのです。ヘザーの喜々とした言動にマリーナは、この女が自分と自分の子供が積年苦しんできた悲劇の元凶となった風疹をうつしたことを瞬時に悟ってしまいます。そして、このパーティー会場でヘザーが毒殺されるのでした。