“日本プロレスの父”力道山が大相撲からプロレスに転向し、日本プロレスを立ち上げてから2023年で70年が経つ。力道山はすぐに国民的スターとなったが、1963年の殺傷事件で、39年間の太く短い生涯を終えた。しかし、力道山を取り巻く物語はこれで終わりではない──。彼には当時、結婚して1年、まだ21歳の妻・敬子がいた。元日本航空CAだった敬子はいま81歳になった。「力道山未亡人」として過ごした60年に及ぶ数奇な半生を、ノンフィクション作家の細田昌志氏が掘り起こしていく。第14話ではついに客室乗務員への扉が開かれていく。【連載の第14回。第1回から読む】
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第14話「日本航空」
日本航空(JAL)の歴史は、戦後復興の歴史とそのまま重なる。
敗戦後、連合軍の管理下に置かれ、“民主国家”として再スタートを余儀なくされた日本は、非民主的とされたものは徹底して否定され解体された。内閣、憲法、軍隊、財閥、そこに航空も含まれた。軍用機はともかく旅客機の運航さえGHQは許可しなかった。戦時中、零戦に随分と痛い目に遭ったからだ。
航空技術者の堀越二郎らによって設計、製造され、開戦前年の1940年に正式採用された零式艦上戦闘機(通称・零戦)ほど連合軍を悩ませたものはなかったかもしれない。不時着した零戦を接収した米軍の研究者は、高度な性能に舌を巻き「金輪際、日本人に飛行機を作らせてはいけないし、操縦させてもいけない」と考えた。そのトラウマが戦後の民間航空の再開にブレーキをかけたのである。
その方針は東西冷戦によって覆る。極東の島国である日本も米ソ対立に否応なく巻き込まれ、敗戦国家のあらゆるくびきから解放されるようになる。いわゆる「逆コース」である。航空事業もその例に漏れず、1950年には航空会社を対象とした運航が解除となった。ここから、民間航空事業による認可獲得競争が始まるのである。
当初は海外7社の共同出資による「日本内国航空会社」が認可を申請し、海外資本により民間航空会社設立が半ば決まりつつあったが、国内世論に押され、程なく次々と参入者が現れた。楢橋渡(のち運輸大臣)、尾崎行輝(参議院議員)、石川博資(帝産グループ総帥)ら旧海軍関係者や戦前の大日本航空を背景とした一派。藤山愛一郎(のち外務大臣)、高橋龍太郎(第3代日本サッカー協会長)ら商工会議所のメンバーを中心とする一派。石川一郎(経団連会長)、山下太郎(のちアラビア石油社長)ら財界人で構成された一派。さらには東急電鉄を中心とした一派……。特筆すべきはそのいずれも「日本航空」を社名に掲げたことである。
その後、楢橋派と石川派の合体、東急グループの撤退と整理統合が進み、1951年5月15日、藤山愛一郎を会長、元日銀副総裁の柳田誠二郎を社長とする「日本航空株式会社」が発足。国内民間航空の事業免許が与えられ、8月に「東京―大阪」「大阪―福岡」の三都市を航路とすることも決まった。上記の経緯から航空事業が政府肝煎りの半官半民で始まったのは言うまでもない。