「研修中はそれどころじゃないもの」
ようやく得心した。長く渡世を歩いた彼にとって「奇跡的な4年間がある」「日航のパーサーをやっていた」というのは、後年のエッセイで明かすように有名な話である。三島由紀夫の小説『複雑な彼』のモデルにもなっている。
彼こそ1968年に刊行した『塀の中の懲りない面々』(文藝春秋)が200万部を超えるミリオンセラーとなった作家の安部譲二である。本名、安部直也。彼もまた、田中敬子と同じく1960年の日本航空・臨時採用試験を通過し、61年に入社した男性客室乗務員11期となる。彼の著書に次のような記述がある。
《新婦の敬子さんとは、昭和三十六年の一月に、ヤクザが下手で喰うのに困って潜り込んだ日本航空の訓練所が同期で、仲良くしてもらったという御縁があって、それから四十年以上経った今でも、時々電話が掛かってくる》(『日本怪死人列伝』扶桑社)
新人研修は、体育を除いて男女の客室乗務員は一緒に学んだというが、後年のミリオンセラー作家もその中にいたことになる。
ちなみに、安部譲二はこの時代の「スチュワーデス」について、次のような所感を抱いていた。
「あの頃は、スチュワーデスは、はっきり2色に分かれたんです。一つは日本中から選び抜かれたお嬢さんですよ。おそらく。いちばん優秀で、いちばんチャーミングな人の集団でしょう。(中略)それともう一つは、なんてったって国営航空ですから、自民党の代議士が選挙区の有力者の娘を集票マシーンのごほうびに押し込む」(『週刊現代』1988年1月27日号)
田中敬子は、「私の場合そのどちらでもない」とやんわり否定しながら、次のように回想する。
「ナオ(安部譲二)もいました。同期です。ただ、研修中のときは知らない。認識するようになったのは、スチュワーデスになってフライトを繰り返すようになってから。研修中はそれどころじゃないもの。教官から『初フライトまで時間がない』って散々言われて、1月から3月まであっという間。毎日が目まぐるしくて、そんな余裕なかったから」(田中敬子)
1961年3月末。田中敬子ほか13名の19期生はどうにか、研修日程を通過。国内線「羽田―千歳で初フライトを踏んだ。
敬子は晴れて日本航空のスチュワーデスになったのである。
(文中敬称略。以下次回、毎週金曜日配信予定)