奸臣とは言うまでも無く「邪悪な心を持った家来」のことで、幕末ならこんなことを言ったら村田は山本に斬り殺されていたかもしれない。それぐらいひどい言葉なのである。すべての国民は臣民(天皇の臣下としての民)であるというのが大日本帝国のモラルの基本であり、確たる証拠の無い限り人を奸臣呼ばわりすることは絶対に許されない。では、「天皇から賜った三万円を山本は松田正久の葬儀費用に充てた」などという事実はあったのか?
松田正久とは、前に紹介したように西園寺公望とは留学生仲間でもあり同志であり、政友会の大物でもあったが、胃に持病がありこの審議の数日前に死去していた。男爵を授けられるほどの功労者であり当然弔慰金も出ただろうが、村田の言うような事実は無い。すなわち、村田の罵倒は根拠無き言いがかりなのである。
結局、この日村田が山本に浴びせた罵倒の言葉を順を追って列挙すれば、「國賊」「海軍收賄ノ發頭人」「犬猫同樣」「刑法モ御存ジ游バサレマセヌ」「大西郷ガ居ラレタナラバ閣下モ亦切腹」「土芥糞汁ノ如シ」「不徳義千萬」「卑劣漢」「奸臣」でありまったくひどいものだが、よくよく議事録を読んでみると村田は「土芥糞汁」や「奸臣」などもっとも強烈な罵倒については「小学生がそう言っている」「家に来た無名の投書の主がそう呼んでいた」と逃げをうっている。本当に「卑劣漢」なのは、いったいどちらだろうか。
あまりのことに、貴族院議長の徳川家達公爵は村田に注意を与えた。議院法九十二条に触れる可能性があるというのだ。これは、議場ではこうした無礼な言葉を使って他人を貶めてはならない、というルールである。これに対し村田は、皇室のことは決して批判していないと抗弁したが、徳川議長が九十二条は皇室だけで無く他の人々にも適用されると再度注意したところ、村田は開き直って山本に対し「速やかに総理大臣の職を辞することを国民に代わって勧告する。もしそうしなければ、私はあなたを海軍の腐敗を醸成した大罪人と思う」と述べ、議長には「議場において不祥不吉なる言語を用いたことを謝罪する」と捨てゼリフを残し、そのまま議場を出て辞表を提出し二度と貴族院には戻らなかった。
皇族も認めた「水産翁」
ところで、議長の徳川家達とは最後の将軍徳川慶喜が「朝敵」となって隠居したあと養子に入って徳川宗家を継いだ、あの田安亀之助のことだが、貴族院議員村田保というのは、いったいどんな人物だったのか?
〈明治―大正時代の官僚、政治家。
天保(てんぽう)13年12月28日生まれ。肥前唐津(からつ)藩(佐賀県)藩士の長男。太政官、内務省につとめ、明治23年貴族院議員。大正3年のシーメンス事件で、山本内閣弾劾の演説をおこない議員を辞職。水産伝習所(東京水産大の前身)の創設などで水産界に貢献し、水産翁と称された。大正14年1月6日死去。84歳。〉
(『日本人名大辞典』講談社刊)
経歴を一読すればおわかりのように、村田はとくに陸軍シンパというわけでは無い。しかし、この日の村田の「大演説」を新聞各紙は褒め称え英雄扱いしたという事実はあったようだ。残念ながら、日比谷焼打事件のころから日本のマスコミは大衆を扇動し部数を伸ばすということしか考えていない。
このときも、本当に考えるべきは第一に陸相海相の現役武官制を改革(廃止)することであり、日本にとって海軍と陸軍のバランスはこれでいいのか、冷静に判断することであった。新聞はそれをせず、ただただ山本内閣打倒のキャンペーンに専念した。山本は公平な人物で、しかも軍部があまりにも政治に関与することは危険であり、『軍人勅諭』だけではそれを防げないという見解の持ち主であった。
だからこそ、このあたりから元老になった西園寺公望や政友会に推戴されて、首相になった。逆に村田はそういうことが全然わからず、ただ単純に新聞のキャンペーンに乗せられ、どんな形でもいいから山本内閣を退陣に追い込むのが正義だと確信していたようだ。だからこそ山本首相を徹底的に罵倒したのだろう。
村田は実業界とくに水産業界ではきわめて有能で、「水産翁」という「号」も自称したわけでは無く、水産業界における多年の業績を嘉して小松宮彰仁親王がとくに贈ったものだ。日本は四面を海に囲まれ、水産資源を活用するにはきわめて有利な条件にあったにもかかわらず、明治以来その運用は決して効率的なものでは無かった。それを改革したのが村田であり、日本における缶詰生産を本格的に始めたのも村田だった。