“日本プロレスの父”力道山が大相撲からプロレスに転向し、日本プロレスを立ち上げてから2023年で70年が経つ。力道山はすぐに国民的スターとなったが、1963年の殺傷事件で、39年間の太く短い生涯を終えた。しかし、力道山を取り巻く物語はこれで終わりではない──。彼には当時、結婚して1年、まだ21歳の妻・敬子がいた。元日本航空CAだった敬子はいま81歳になった。「力道山未亡人」として過ごした60年に及ぶ数奇な半生を、ノンフィクション作家の細田昌志氏が掘り起こしていく。第21話ではついに後に夫となる力道山との“つながり”が動き出す。【連載の第21回。第1回から読む】
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第21話「息子の嫁」
東京六大学野球が、「職業野球」と呼ばれた時代のプロ野球の人気をはるかにしのいでいたことは、オールドファンなら常識の範疇かもしれない。
しかし、1958年を機に人気は逆転する。六大学のスターがこぞってプロ入りしたからである。長嶋茂雄(立教→巨人)杉浦忠(立教→南海)本屋敷錦吾(立教→阪急)近藤和彦(明治→大洋)が主な面々である。
その中において、1955年の秋季リーグ第3戦で決勝ホームランを放ち、早大を優勝に導くなど、長嶋茂雄と並ぶスラッガーとして人気を博したのが森徹(早大→中日)だった。
1962年、田中敬子の父、勝五郎のもとに来客として姿を見せた婦人とは、この森徹の母親の信(のぶ)である。日本航空のスチュワーデスとして世界中を飛び回っていた田中敬子の写真を見た信は、息子の結婚相手にしようと決めた。人気プロ野球選手の結婚相手として、花形の職業である日本航空のスチュワーデスなら不足はないと考えたのだ。
「森さんのお宅とは以前から知り合いだったんです。ただ、私はお会いしたことがなかった。ある日たまたま、私の写真を見たら気に入って下さったらしくて、写真を持って帰ったらしいのね」(田中敬子)
このとき、信が息子の縁談を急いだのは、この年から森徹が中日を離れ、川崎球場に本拠地を置く大洋に移籍したことも背景にあったのかもしれない。自宅が名古屋から東京に移ったのを機に、息子に身を固めさせようと考えても不思議はないからだ。