能天気な評価を下す歴史学者

 最大の問題は、山本が「群衆」の「騒擾」が「ややもすればたちまち一種の習慣性を馴致し、将来おおいに国家の安寧を害するの虞れある」と指摘しているところである。これはきわめて重大な指摘である。

 すでに、日清戦争のころからその兆候はあった。そして、日露戦争終了後のポーツマス条約締結において『國民新聞』以外の日本の新聞各紙が「屈辱講和」などと事実とまったく違うことを書き立て民衆を扇動した結果、「輦下(天子の乗り物の下、つまり天皇のお膝元)の一大騒擾」である日比谷焼打事件が起こったことは『逆説の日本史 第二十六巻 明治激闘編』に詳述したところだ。

 歴史学者のなかには、この日比谷焼打事件を「大正デモクラシーの出発点」とか「民衆の政治参加の原点」などと高く評価する向きもあるようだが、ひょっとしたらこういう人たちは「60年安保闘争」に参加し国会を包囲したことが、完全に正しいことだと確信している人々やその弟子たちなのではないか。たしかに政府の強引な決定に異を唱える権利は民衆にはあるし、その一環としてのデモ活動も否定されるべきでは無い。

 しかし、それとあの時点で日米安保条約を延長することが日本の国益にかなうことであったかどうかは、まったく別の問題で冷静に合理的に考察しなければならない。少なくとも、横暴な政府に対して国民がデモを実行することは絶対に正しいことだ、などと美化すべきでは無い。

 日比谷焼打事件については、すでに「大正デモクラシーの出発点」どころか「向こう四十年の魔の季節の出発点」であったとする国民作家司馬遼太郎の見解のほうが的確であると評価した。ここで忘れてはならないことは、司馬遼太郎は作家になる前に長年にわたって新聞記者として活動してきたことである。つまり、マスコミ問題の専門家と言ってもいい見識の持ち主であったということだ。

 こうした問題はマスコミ問題でもあるのだから、歴史学者としては評価を下す前にその分野の専門家に意見を聞くべきだろう。ここで思い出していただきたいのは、歴史学者は孝明天皇の病死の事情について専門家である医者の意見をまったく聞かず、何十年にもわたって論争を続けてきたという事実である。ここからは推測だが、日比谷焼打事件を「大正デモクラシーの出発点」などと評する先生方は一度でもマスコミの専門家の意見を聞いたことがあるのか。たぶん無いだろう。

 また、帝人事件についても法曹界の専門家に話を聞いたことは無いのではないか。自分が「ナマの史料」を読めるという他の分野の専門家には無いスキルを持っているとプライドを持つことはいい、それは事実でもある。しかし、それほど専門家としての自分に自信とプライドを持っているのなら、他の分野の専門家にも敬意を払い、その意見を尊重すべきだろう。つまり医療問題なら医者に、マスコミ問題ならジャーナリスト経験者に、法律問題なら検事か弁護士に、なぜ取材して意見をまとめないのか。

 少なくとも日比谷焼打事件について「大正デモクラシーの出発点」などと能天気な評価を下す歴史学者は、まず間違い無くマスコミの専門家の意見は聞いてないだろう。なぜなら、ここで山本権兵衛が指摘しているきわめて重大なマスコミの問題点に、私の知る限り触れている歴史学者はいないからである。日比谷焼打事件と金剛・ビッカース事件の間には連関性があり、とくに重要なのは山本が「群衆」の「騒擾」が「一種の習慣性を馴致」するよう新聞が煽動している、という指摘である。

 歴史学界の定説では大日本帝国が破滅への道を歩んだのは軍部の横暴、とくに陸軍の独走が最大の原因であるということになっている。たしかに二・二六事件、満洲国建国、国際連盟離脱、英米との対決路線など、一見そのように見えることは事実だ。また、まだ日本と中華人民共和国との正式な国交が確立されていない一九六〇年代、中国はいまと違って「戦前の日本の侵略は一部の軍国主義者によるもので、日本人民には罪は無い」と言っていた。

関連キーワード

関連記事

トピックス

部下と“ラブホ密会”が報じられた前橋市の小川晶市長(時事通信フォト・目撃者提供)
《ラブホ通い詰め問題でも続投》キリッとした目元と蠱惑的な口元…卒アル写真で見えた小川晶市長の“平成の女子高生”時代、同級生が明かす「市長のルーツ」も
NEWSポストセブン
ポストシーズンで快投をみせる佐々木朗希
「ポテンシャルは大谷以上」復活快投の佐々木朗希 昭和の大投手たちが太鼓判「1年間投げ続けられれば本当にすごい投手になる」
週刊ポスト
ものづくりの現場がやっぱり好きだと菊川怜は言う
《15年ぶりに映画出演》菊川怜インタビュー 三児の子育てを中心とした生活の中、肉体的にハードでも「これまでのイメージを覆すような役にも挑戦していきたい」と意気込み
週刊ポスト
田久保市長の”卒業勘違い発言”を覆した「記録」についての証言が得られた(右:本人SNSより)
【新証言】学歴詐称疑惑の田久保市長、大学取得単位は「卒業要件の半分以下」だった 百条委関係者も「“勘違い”できるような数字ではない」と複数証言
NEWSポストセブン
国民民主党の玉木雄一郎代表、不倫密会が報じられた元グラビアアイドル(時事通信フォト・Instagramより)
《私生活の面は大丈夫なのか》玉木雄一郎氏、不倫密会の元グラビアアイドルがひっそりと活動再開 地元香川では“彼女がまた動き出した”と話題に
女性セブン
本拠地で大活躍を見せた大谷翔平と、妻の真美子さん
《真美子さんと娘が待つスイートルームに直行》大谷翔平が試合後に見せた満面の笑み、アップ中も「スタンドに笑顔で手を振って…」本拠地で見られる“家族の絆”
NEWSポストセブン
“高市効果”で自民党の政党支持率は前月比10ポイント以上も急上昇した…(時事通信フォト)
世論の現状認識と乖離する大メディアの“高市ぎらい” 参政党躍進時を彷彿とさせる“叩けば叩くほど高市支持が強まる”現象、「批判もカラ回りしている」との指摘
週刊ポスト
バラエティ番組「ぽかぽか」に出演した益若つばさ(写真は2013年)
「こんな顔だった?」益若つばさ(40)が“人生最大のイメチェン”でネット騒然…元夫・梅しゃんが明かしていた息子との絶妙な距離感
NEWSポストセブン
前伊藤市議が語る”最悪の結末”とは──
《伊東市長・学歴詐称問題》「登場人物がズレている」市議選立候補者が明かした伊東市情勢と“最悪シナリオ”「伊東市が迷宮入りする可能性も」
NEWSポストセブン
ヴィクトリア皇太子と夫のダニエル王子を招かれた天皇皇后両陛下(2025年10月14日、時事通信フォト)
「同じシルバーのお召し物が素敵」皇后雅子さま、夕食会ファッションは“クール”で洗練されたセットアップコーデ
NEWSポストセブン
問題は小川晶・市長に政治家としての資質が問われていること(時事通信フォト)
「ズバリ、彼女の魅力は顔だよ」前橋市・小川晶市長、“ラブホ通い”発覚後も熱烈支援者からは擁護の声、支援団体幹部「彼女を信じているよ」
週刊ポスト
ソフトバンクの佐藤直樹(時事通信フォト)
【独自】ソフトバンクドラ1佐藤直樹が婚約者への顔面殴打で警察沙汰 女性は「殺されるかと思った」リーグ優勝に貢献した“鷹のスピードスター”が男女トラブル 双方被害届の泥沼
NEWSポストセブン
亡くなった辻上里菜さん(写真/里菜さんの母親提供)
《22歳シングルマザー「ゴルフクラブ殴打殺人事件」に新証言》裁判で認められた被告の「女性と別の男の2人の脅されていた」の主張に、当事者である“別の男”が反論 「彼女が殺されたことも知らなかった」と手紙に綴る
NEWSポストセブン