カミソリが送られ、観客からは悲鳴──世間の嫌われ者へ
カミソリが送られてきたことも
子役で大ブレークした後も、生活水準が一気に上がったわけではなかったという。「財布に2000円入っていれば十分でした。でも、芝居や舞台を見るお金には際限なく使ってくれた。オペラ、海外から来たバレエ劇団を見ましたし、歌舞伎座は小学5年生の時に1年間の全演目を見ました。芝居を見る目が養われ、心が豊かになったと思います」と母親への感謝を口にする。
母親は児童劇団のマネージャーを経て、人気俳優のマネージャーとなり、芝居や舞台を見る機会が多かった。黒田が8歳の時、俳優の宇梶剛士が「こいつには舞台を見せなきゃだめだ」と母親に力説したという。金の卵に光るモノを感じたのかもしれない。
「俳優・黒田勇樹」の名がお茶の間で一気に広まったのが、12歳の時に出演したドラマ『人間・失格~たとえばぼくが死んだら』(1994年)だろう。野島伸司が脚本のこのドラマは名門私立中学校を舞台にした物語で、イジメ、体罰、虐待などを生々しく描いた描写が大きな反響を呼んだ。最高視聴率は28.9%を記録。いじめられっ子から、いじめグループの主犯になるという難しい役どころを演じた黒田の評価は称賛の声ばかりではない。むしろ、役柄に対して向けられた憎悪の感情が多かった。
「子供なりにいじめは良くないと思って、いじめる役をやるには徹底的に嫌われなければいけないと思っていました。『この人にもいいところがあるんだよ』と逃げ道を作りたくなかったし、カッコつけたくなかった。世間に嫌われたけど、それは評価、成果だと思っていました。プライベートは色々大変でした。うーん……記憶から消していますね。“あの時はいい芝居をした”っていう箱に入れている」
仕事で求められた役回りを全うした代償として、世間の「嫌われ役」になった。12歳の少年は心が大きく傷ついただろう。数秒間の沈黙の後、黒田が続けた。
「話せる範囲で言えば、カミソリが送られてきたとかですかね。後は、テレビの『人気の美少年ランキング』という企画で、僕の名前が上位に出てきた時に客席全員から『いやー!』って悲鳴が起きて。今となってはテレビの制作サイドがそういう演出をさせたのか、お客さんに本当に嫌われていたのかわからないけど、子供心に傷ついたなあ」
こちらに気を遣って笑いながら話してくれたが、歳月を経ても傷つけられた人間の存在を忘れてはいけない。裏を返せば、視聴者の心に残る黒田の演技力はズバ抜けていた証左だろう。仕事に向き合うプロ意識も高い。この後に人気子供番組から出演オファーが来たが、「嫌われ役ができなくなる」と自ら断りの連絡を入れた。
その後も俳優として活躍していく中で、人生の大きなターニングポイントになったのが、
17歳の時に映画初出演となった山田洋次監督の映画『学校III』だった。演技力が高く評価されて日本アカデミー賞新人俳優賞をしたが、黒田が関心を抱いたのが映画監督の世界だった。
「山田監督に出会ってこんな素敵な仕事あるんだって。もう圧倒的に凄いんです。新幹線に向かって『速い!』と怒ったり、夕日に向かって『まだ沈むな!』と叫んだり(笑)。共演した(田中)邦衛さんが『監督に辞めろって言われたよ。トミー(黒田の役名)、オレ落第だよ』って落ち込んでいて。あの邦衛さんがですよ? 凄い世界だなと。当時の高校の進路相談で、『映画監督になりたいです』と伝えました」
その決意は本物だった。大学進学を機に、「映画監督になるために外の世界を見たい」と芸能活動を休止。バーテンダーのアルバイトなどして、一般社会を知る。「結局は家で勉強するより、素敵な俳優になって素晴らしい映画、山田洋次監督のような素晴らしい監督に出会うことが、映画監督になれる一番の道だと気づいて」と2年後に復帰した。
28歳で俳優業を引退し、引っ越し業者やコールセンターなど様々なアルバイトをしたが、ワークショップなどで演技指導と映像制作を経て、31歳の時に舞台に世界に復帰した。現在もアルバイトをしながら、舞台、ドラマの監督、脚本の仕事で多忙な日々を送っている。
「お金はないし全然休んでいないけど、モノ作りに携われている。求められることは幸せですよ。50歳までミュージカル映画を1本取って、死ぬまでに10本の長編映画を製作するのが目標ですね。僕の没後100年ぐらいに、1人の稀有な学生に『黒田勇樹映画について』という論文を書いてもらって。そんな学生いないかもしれないけど、天国で爆笑したいですね」
紆余曲折を経て、今がある。かつての天才子役は、40歳を越えた今も大きな夢に向かって走り続けている。
【了。前編から読む】
取材・文/平尾類(フリーライター) カメラ/木村圭司