こうした陸軍軍人の言を、戦後は一〇〇パーセント否定するのが正しいと考えている人々もいるのであえて言っておくが、少なからず真実を含んでいることは事実である。「支那人は弱味を見すれば際限もなくつけ上る國民にして、而も恩義を忘卻する」とあるのもそうだ。一九八九年(平成元)、中国は天安門事件を起こし日本や欧米各国からさまざまな制裁を受けた。
このまま制裁が続けば中国はジリ貧になったところだが、この苦境を脱出するために中国が取った作戦が「お人好しの日本を利用する」ことだった。具体的には、当時の宮沢喜一首相に働きかけて天皇(現・上皇)訪中を実現しようとしたのである。つまり、日本の天皇が訪問するような国であれば欧米も警戒心を緩めるだろうということだったのだが、この策略に宮沢首相はまんまと乗ってしまった。
宮沢内閣は苦心して天皇訪中を実現し、その結果中国は国際社会に復帰できた。いわば当時の中国にとって日本は大恩人だったわけである。にもかかわらず中国は、それで得た貿易の利を国内の反日教育につぎ込み、共産党の地位を強化するとともに日本を貶めた。そして、その後日本が国賓として招いた中国の江沢民国家主席(当時)は、天皇主催の晩餐会で日本に感謝するどころか過去の日本軍国主義を口を極めて非難した。
これはまったくの事実であり、私がでたらめを言っているわけでは無い。それどころか、この策略に加担した中国の銭其シン外相(当時)は、回顧録でいかにお人好しの日本人を騙して外交的苦境を乗り切ったかという自慢話を展開している。この回顧録は日本語版も出ているから、ぜひ宮沢直系(宏池会)である岸田文雄首相には読んでいただきたい。そして、二度と同じ轍を踏まないでいただきたい、そんなことをすればまたまた中国は日本をバカにし、自慢話のタネにするだろう。
少なくとも中国共産党は恩をすぐに忘れる政権であることは間違い無い。ただ、孫文も黄興もその類だという決めつけには反論しておかねばなるまい。たとえば、孫文がせっかく日本人の強力な援助によって政権を成立させたのに、ただちにそれを袁世凱に譲ってしまったのは、日本人から見れば「恩知らず」に見えるかもしれない。だが、そこにやむを得ぬ事情があったことはすでに詳しく説明したとおりである。
もちろん、中国にも「いいひと」はいる。それは万国共通だが、中国は紀元前から「孫子の兵法」があり、敵国を騙すことは戦争で多くの人命や財産を失うより美徳とされていたことを忘れてはならないだろう。われわれは、いずれにせよ今後もこの「面倒くさい」隣国と付き合っていかねばならないのである。ただし、だからと言って本来は言うまでも無いことなのだが、「火事場泥棒」をしていいということにはならない。
ならないのだが、当時の帝国主義というのは「国家が公然と火事場泥棒をする」ことであり、イギリスはアヘン戦争で、ロシアは義和団事件で、ドイツは宣教師殺害事件を奇貨として、次々と利権を拡大しつつあった。「やらねばやられてしまう」という恐れもたしかにあった。いわばこの大正二年九月というのは、孫文が後に述べた「西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城(守る城)になる」のか、最初の分岐点であった。
そして、「近事片々」「大に膺懲せよ」「阿部談話」など一連の記事が朝刊に載った日の夜に、外務省の阿部守太郎は襲撃されたのである。
(1385回に続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2023年6月30日・7月7日号