日本語を母語としないながらも、今は流暢でごく自然な日本語で活躍している外国出身者は、どのような道のりを経てそれほどまで日本語に習熟したのか。日本語教師の資格を持つライターの北村浩子氏がたずねていく。今回は、ネットスラングも交えた多彩な日本語で文芸評論からコメンテーターとしてのテレビ出演まで幅広く活躍する、ドイツ出身のマライ・メントラインさんにうかがった。【全4回の第4回】
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マライさんはこのインタビューの前に、日本語を学び始めた頃に使っていたテキストや問題集、ノートの画像を送ってくださった。お父様が保存されていたのだという。ひらがなや動詞の活用の練習、難解な言葉を調べた記録など、地道な学習の軌跡がそこにあった。
今回、わたしはマライさんに見ていただこうと思い、日本語学校で長く使われている定番の教科書『みんなの日本語』を持って行った。「あ、これ有名なやつですよね。知ってます知ってます」とマライさん。動詞の受身形、条件形、敬語などの学習項目が網羅されているものだ。
「中学の頃、ビジネス日本語を習ったって話をさっきしましたけど、途中でいきなり難しくなったことがあったんですよ。『雨に降られた』みたいな例文が突然出てきたんです。『降られた』は、動詞の受身形ですよね。ビジネス日本語だと敬語が欠かせないから、その準備段階として出てきたのかもしれないですけど」
マライさんの見立てはおそらく正しい。『部長は資料を読まれる』『母に日記を読まれる』のように、尊敬語のフォームと受身形は重なるものがあるからだ。『雨に降られた』のような文は、日本語教育業界では「迷惑の受身」と呼んでいる。
「あ、『迷惑』なんですね。ドイツ語では日本語のそれ、『悲しみの受身』『悲劇の受身』って表現してたと思います。面白いですよね。ドイツ人だったら、雨を主役にして『そいつが私になんかした』って言い方はしないと思うんです。普通に『雨が降って濡れた』くらいの感覚。日本語の表現で似たようなのだと、他には『親に死なれた』『子供に泣かれた』とか。
迷惑っていえば、『ちょっと』も迷惑を表しますよね。拒絶というか」
そう、『みんなの日本語』でも、最初のほうで、断りの表現として「ちょっと」が出てくる。コンサートに誘われたというシチュエーションの会話文の中に「金曜日の晩はちょっと……」という一文があり、「ちょっと……」で日本人は、都合が悪い(あるいは断りたい)ことを示す、と教師は教える。ダイレクトに言わないのが日本語の性格でもあると(暗に)伝えるのだ。