世の女性の業を昇華する、「瀬戸内寂聴」なる存在。振り返ればこの時の衝撃が、『J』の執筆へ導いた。
「寂聴先生が51歳で出家する際に剃り落とした黒髪も展示されていたんです。見る者を呪縛するような異様な存在感を放っていて、気づいたら、後ずさりをしていました」
いまにも動き出しそうな黒髪から漏れてくる、断ち切れない情念。
「この女性は出家してもなお、性愛から逃れられなかったんじゃないかと本能的に思いました。まだご存命の頃だったので、その業がことさらリアルに感じられた。
友人である『母袋』が寂聴先生の晩年に、電子書籍の仕事でご縁があったことは知っていました。しかし、まさか男女の仲だったとは。でも彼に寂聴さんの話を打ち明けられた瞬間、あの艶めかしい黒髪が頭によみがえってきたんです。作り話だと訝ることもなく、さもありなんと、スッと腑に落ちました」
瀬戸内さんは、作家・井上光晴さんとその妻との三角関係が出家の引き金だと明かしている。最晩年には、
《私は51歳で得度してから、いっさいセックスをしていません》(『笑って生ききる』)
そう語るなど、尼僧になってからは性愛を断ったとも思われていた。
「母袋がJを語る言葉は、男と女のつきあいがなければ吐けないものでした。例えば出家に関して『寂聴先生は大体がおっちょこちょいで、すぐしでかす』なんて、われわれは言えませんから。彼が大作家と日常的な会話をできる男であった証で、とても色気のある言葉ばかり。母袋を通じたJの言葉は、一つひとつが金科玉条のように響いてきたんです」
「特定されることも含めて、最初から覚悟があったようだ」
瀬戸内さんとの愛欲に溺れた「母袋晃平」とは何者か。発刊されるとネット上では相手探しも始まった。
《電子書籍ビジネス》会社の社長で、瀬戸内さんの新作小説《『ふしだら』》を発売した──調べると、ひとりの人物が浮かび上がる。
2010年、村上龍さんがIT企業と立ち上げた電子書籍の制作・販売会社から新作が発表され、吉本ばななさんの作品も配信された。新会社設立時の会見写真には村上さんや吉本さんと並んで、『J』に母袋として描かれた《一九〇センチを超える長身で色黒の優男》を思わせる、シュッとした甘いマスクの男性も写っている。その人物を辿れば、ファーストネームが母袋と同じく、海外育ちの点も一致する。
母袋と特定されて、モデルとなった彼はいま、何を思うのだろうか。
「特定されることも含めて、最初から覚悟があったようです。現在進行形ではなく過ぎ去った男女関係ですし、きれいさっぱり他人になって家庭へ戻ったことが区切りにもなったのかな。執筆のための取材に応じている時から、隠すことは何もないと終始、達観したような様子でした」