ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十二話「大日本帝国の確立VII」、「国際連盟への道5 その1」をお届けする(第1387回)。
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形のうえでは軍人内閣ではあったが、伊藤博文、西園寺公望という反侵略路線の流れを汲む山本権兵衛海軍大将を首班とする内閣(第1次山本権兵衛内閣)は、一九一四年(大正3)三月二十四日、総辞職に追い込まれ崩壊した。「中国侵略推進路線」を正しいと考える陸軍強硬派と、その方針を熱烈に支持するマスコミ(新聞)の勝利であった。
ここで「侵略推進派」としては、その方向性を支持する人間か、この路線の熱烈な支持者では無くてもその方向に進むようにコントロールできる人間を首相にしたいところである。しかし、首相を推薦する元老のメンバーには「陸軍の法王」山県有朋だけで無く、「侵略反対派」の西園寺公望もいる。つまり陸軍出身者の大物などをいきなり推薦することは難しい。
そこで、「この人物なら首相就任を誰もが認めるだろう」という観測のもとに「選ばれた」のが、貴族院議長徳川家達公爵であった。幼名田安亀之助、最後の将軍徳川慶喜が朝敵として事実上の追放処分になった(のちに許されて公爵になる)後、徳川宗家を継いだ若君である。このとき五十一歳だった。
大正天皇も元老の意見に従い、三月二十九日に徳川家達に首相を受けるよう命じた。すなわち大命降下したのだが家達は即答せず、翌日辞退した。たしかに長年にわたって家達は貴族院議長だったが、大臣経験も行政経験も無い。要するに経験不足で自信が無い、というのが辞退の理由だったから周囲も無理強いはできず、次に白羽の矢が立ったのが貴族院議員や大臣を歴任していた清浦奎吾だった。
清浦は一八五〇年(嘉永3)肥後国(現熊本県)山鹿郡の生まれだから、このとき六十四歳。僧侶(浄土真宗本願寺派)の息子として生まれたが松方正義そして山県有朋の知遇を受け、主に司法・警察畑を歩み大臣経験も豊富であり、当時は枢密院顧問官であった。枢密院は、そのメンバーである枢密顧問官が天皇の諮問に応じて憲法や緊急勅令、条約等についてアドバイスする機関である。当然天皇も清浦なら首相の任に堪えうると判断し、大命降下となった。三月三十一日のことである。
だが、これではせっかく軌道に乗りかけた政党政治の確立を求めた護憲運動の成果を無にすることになる。そこで政友会は内閣成立阻止に向けて動いたが、護憲派の致命的弱点は首相にふさわしい人材がいないことだった。生粋の政党人でのちに首相になる犬養毅はこの時点では大臣未経験で、尾崎行雄と原敬は大臣を経験していたが、まだまだ経験不足である。となれば、超然主義内閣(政党政治を無視した内閣)になってしまうが清浦しかいない。
ところが、清浦内閣は結局成立しなかった。海軍大臣に内定していた加藤友三郎が、山本内閣で予定されていた海軍予算の執行について清浦の確約を求めたために事態は紛糾したのである。日露戦争の折には聯合艦隊司令長官東郷平八郎大将、秋山真之中佐とともに旗艦『三笠』の艦橋に立ち日本海海戦を勝利に導いた加藤だったが、広島出身でもあり海軍のなかでは薩摩閥に属していなかった。
清浦内閣は薩摩閥の山本内閣を倒した形で跡を継ぐことになるので、清浦は薩摩閥に属さない加藤なら、すんなり海相を引き受けてくれると考えたのだが、加藤とて海軍の一員であり海軍全体の利益については敏感だった。結局清浦はこの問題があって組閣を断念し、内閣は成立しなかった。そして実際には成立しなかった内閣なのだが、「清浦内閣」は「鰻香内閣」と呼ばれた。鰻屋の店先まで行ったが匂いを嗅いだだけで結局食べられなかった、ということだ。清浦がそういう感想を述べたことがこの言葉の由来となったようだ。
しかし、文字どおり冗談を言っている場合では無かった。国政の空白が二十日にもおよんだからである。とにかく、一刻も早く総理大臣を決めなければいけない。そこで最長老でもある元老井上馨が考えたのが、首相経験はあるものの政界を引退してひさしい大隈重信を引っ張り出すことであった。大隈はこのとき、なんと七十六歳。それまで最高齢の首相は第三次内閣を率いたときの桂太郎で、六十五歳だった。しかも、最初に首相として第一次大隈内閣を率いて以来、十六年の歳月が流れていた。これだけの空白の期間を経て再び首相となった人物は、日本憲政史上大隈ただ一人である。