一般には、最初の首相を辞めてからの大隈は教育者あるいは文化人として認識されていた。この間の出来事として、一九〇八年(明治41)にアメリカからやってきた大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部の国際親善試合で、大隈が日本初の始球式を務めたことは有名である。大隈の投げたのはストライクゾーンを大きく外れたボール球だったが、儀礼としてバッターボックスに立っていた早稲田の一番打者でキャプテンの山脇正治は、早稲田の総長でもあり総理大臣経験者でもある大隈に恥をかかせるわけにはいかないと故意に空振りをして、それをストライクにした。これ以降、始球式では打者は投手役に敬意を表すためにとんでもないボール球でも空振りをすることが慣例となった、と言われている。
そういうわけで、庶民に絶大な人気のあった「大隈さん」は教育者あるいは文化人だったのだが、大隈自身は現代で言えば九十歳にも匹敵する七十歳を超えた後も、体力抜群・頭脳明晰で陰では政界の調整役を務めカムバックを狙っていた。井上から見れば路線の違いはあったものの、大隈は幕末から明治維新にかけて倒幕を成功させた「同志」でもあるし、気心も知れていた。その点、清浦奎吾や犬養毅などといった「若造」とはまったく違う。そういう意味で、井上馨や山県有朋ら長州閥の元老に批判的だった西園寺公望、松方正義あたりも大隈への大命降下に賛成した。そこで井上は、大隈と面会した。
〈四月一〇日の日中に元老会議が大隈推薦を決めると、夜八時半に元老の求めにより大隈が井上邸を訪れ、元老中で最も親しかった井上と会見した。まず井上はこれまでの元老会議経過を述べ、大隈が組閣を引き受けてくれるかどうかを、元老を代表して打診した。また井上は、陸海軍軍備の調整などを含めた財政・国際問題、中国への経済進出と中国「保全」に関し、ロシア・ドイツ・イギリス・ベルギーに利権の面で遅れを取っていると不満を述べる。さらに、これらに根本的な政策がない、政党、とりわけ政友会が横暴だなどと言い、大隈の反応を見た。大隈はいちいち井上に相槌を打った。〉
(『大隈重信(下) 「巨人」が築いたもの』 伊藤之雄著 中央公論新社刊)
このとき井上は大隈に対し、「山県・大隈・松方と自分が明治天皇の『大業』を助けたが今の状況ではとても安心しては死ねない」(引用前掲書)とまで述べた。ここで注目すべきは、井上が「中国の保全」つまり日本が獲得していた中国への利権の維持拡大を正当なものと思っており、その方向性に反対する政友会の動きを「横暴」すなわち「悪」だと考えていたことだ。そして、そう考える理由をこの動きは「明治天皇の大業」を損なうものだから、と認識していたことだ。
この事実は日本の近代史とくに対中関係史を考えるうえでもっとも重要な視点であるのだが、きわめて軽視されている視点でもある。なぜ軽視されたのかと言えば、大日本帝国が崩壊した一九四五年(昭和20)以降、日本の近代史研究の主流がマルクス史学になったからだろう。マルキシズムは根本が無神論であり、宗教を否定する。そのこと自体は「学問の自由」なのだが、だからといって宗教が歴史に与える影響を軽視したり無視するのは間違っている。人間はたしかに経済的欲望によって戦争もするのだが、その欲望のなかには宗教的情熱を満たしたい、というものもあることを忘れてはいけない。
具体的に言えば、江戸中期から昭和二十年まで日本は「天皇教」という宗教によって動いていた。宗教はしばしば理性的判断を狂わせる。そもそも政友会を作ったのは伊藤博文であった。そして、その伊藤はすでに述べたように「満洲は中国の領土である」という良識をわきまえており、その方向性で日本を導こうとしていた。その路線を確立しようとして失敗したのが西園寺公望なのだが、西園寺はなぜ失敗したのか?
それは、必ずしも山県有朋や桂太郎の陰謀によるものでは無い。「天皇教」の信者たる国民が西園寺や政友会を「悪」と見たからである。では、なぜ「悪」と見たのか? おわかりだろう、そうした動きを「明治天皇の大業」を損なうものと見たからである。「十万の英霊と二十億の国帑」という言葉を覚えておられるだろうか。日露戦争に勝利し南満洲に利権を確立するために、日本は十万人の戦死者と二十億円の国費を費やした。この犠牲は絶対に無駄にしてはいけない、ということである。そして、日露戦争で弱小国日本が大国ロシアに勝つという「奇跡」が起こったのも、明治天皇という「神の御子孫」がこの国を治めていたからだ。だからこそ、中国から獲得した利権はイコール「明治天皇の大業」なのである。