もうすぐ78回目の「終戦の日」を迎える。東京の巣鴨で生まれ育った高木ブーは、中学1年生の春に空襲に遭った。「目の前で自分の家が燃え落ちていくのを見るのは、何とも言えずみじめだった」と絞り出すように語る。90歳を迎えたブーさんに、戦争体験と平和への想いを聞いた。(聞き手・石原壮一郎)
* * *
戦争が激しくなる前の穏やかで楽しかった幼年時代
僕は6人きょうだいの年の離れた末っ子で、両親はずいぶんかわいがってくれた。あれは4つか5つぐらいだったのかな。親父が休みの日には、親子3人でよく大塚の映画館に行った。観るのはたいていチャンバラ映画だったな。映画の前に食堂で食べる親子丼も楽しみだった。
男の子と駆け回って遊ぶより、女の子とママゴトをするのが好きだった。メンコやベーゴマも弱かったな。自宅の庭先には鶏小屋があった。鶏が5、6羽いたと思う。よく卵を産んでくれて、それがいちばんのごちそうだった。お弁当のおかずがゆで卵の日があって、フタを開けた瞬間は飛び上がるぐらい嬉しかったな。横に醤油が入った陶器の入れ物が添えられてるんだよね。
そんなささやかな幸せは、戦争がみんな奪っていった。1945(昭和20)年に入ると、日に日に緊迫した状況になってきた。アメリカのB29が我が物顔で飛んできて、そのたびに空襲警報が鳴り響く。3月10日には「東京大空襲」で、10万人の一般市民が亡くなった。4月には僕が住んでいた豊島区を含む地域が、「城北大空襲」で大きな被害を受けた。
その頃は兄たちは兵隊さんになり、姉たちもお嫁に行っていて、両親と中学に入ったばかりの僕の3人家族だった。僕なりに「親父やおふくろを守らなきゃ」という気持ちがあったのを覚えてる。
目の前で自宅が燃え落ちたあと、無我夢中で逃げた
あの夜、空を埋め尽くすぐらいたくさんのB29が飛んできた。激しく空襲警報が鳴り響く中、切れ目なく「ヒュー」という音がして、四方八方に大量の焼夷弾が落ちてくる。たちまち町は火の海になった。おふくろは先に小石川植物園に逃げたんだけど、僕と親父は火を消そうと頑張った。でも、焼夷弾って油が詰まった筒の束がはじけてあちこちで燃え出すから、どんなに水をかけても消えないんだよね。
目の前で自分の家が燃え落ちていくのを見るのは、何とも言えずみじめだった。怒りとか悲しみとかより、「どうして」って呆然とした気持ちになった。火が広がって「もうダメだ。逃げよう」と親父が言った。飛んでくる火の粉を浴びないように布団を二つ折りにして頭の上に載せて、火の海の中を親父と小石川植物園に走った。息ができないほど煙くて、顔が炎に照らされて熱かった。2キロぐらいなのに、果てしなく遠く感じた。
夜が明けると、家がビッシリ建ち並んでいたはずなのに、巣鴨まで全部焼け野原だった。家の方に向かってトボトボ歩き始めたんだけど、途中には焼けたご遺体がたくさんあった。あの光景も、そしてにおいも忘れられない。とにかくつらかった。
自宅が建ってたところは、全部燃えて何も残っていない。焼け残ったのは、庭にあった防空壕に入れておいたわずかな品物だけ。幼い頃に兄貴たちと聞いたレコードプレーヤーもジャズのレコードも、すべてなくなってしまった。家族が無事だったのは不幸中の幸いだったけど、ご近所の人や同級生の家族もたくさん犠牲になった。
とにかく、生きて行かなきゃいけない。しばらくは焼け跡にバラックを建てて住んでた。でも、雨が降ると雨漏りはするし地面もぬかるむしで、どうしようもない。ほどなくおふくろの実家を頼って、千葉の柏に移り住んだ。8月15日の「玉音放送」も柏で聞いた。暑い日だったな。ラジオの音よりセミの声のほうが大きくて、よく聞こえなかった。