ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十二話「大日本帝国の確立VII」、「国際連盟への道5 その6」をお届けする(第1392回)。
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第一次世界大戦において日本がドイツから「奪い」支庁を置いた南洋諸島六地域のうち、残りの三地域についても述べておこう。その三地域とは、ヤルート、ポナペ、サイパンである。
まずヤルート島だが、これはドイツ語読みで現在はジャルート環礁と呼ばれている。環礁は大小多数の島で構成されているが、陸地の面積は約十一平方キロメートルしかないのに、ラグーンは約六百九十平方キロメートルもある。ラグーンとは、サンゴ礁などが天然の堤防となって外海の荒波から遮断された水深の浅い水域のことだ。トラックの項でも述べたように、大型船舶が停泊しやすい天然の良港になる地形で、それもあってヤルートは日本のマーシャル諸島統治の中心地となった。
日本は他の島々と同じく学校を建設し、水道などのインフラを整備して産業の振興に努め、このあたりはヤシの木から取れるコプラ(ヤシ油の原料)の一大産地となった。この島も戦前(昭和10年代後半)にはアメリカ軍の攻略目標となったが、他の五島にくらべ基地の規模も小さく戦略的価値が低かったのでアメリカ軍による上陸も無く、大規模な戦闘は免れた。
それにくらべて、島民を巻き込んだ大規模な戦闘があったのはポナペとサイパンである。
ポナペ島は西太平洋、ミクロネシアのカロリン諸島の東にあるトラック島などと同じ火山島で、現在はポンペイ島と呼ばれている。島の面積は約三百三十四平方キロメートル、全島が熱帯雨林のジャングルで覆われているため人の住める地域は少ない。かつては独自の古代文明が栄えていたが、大航海時代にスペイン人の侵入によりキリスト教が入り、スペインの領土となった。一八八六年(明治19)のことである。
しかし新興国アメリカとの米西戦争(一八九八年)に敗れたスペインは、南太平洋やアジアに展開する巨大な領土を失った。その植民地だったフィリピンは同年アメリカに二千万ドルで売り渡された(『逆説の日本史 第26巻 明治激闘編』参照)が、このときグアム島もアメリカ領となった。またこの地区から撤退を決意したスペインは、翌年グアム島を除くマリアナ諸島、マーシャル諸島、カロリン諸島の権益を二千五百万ペセタでドイツに売り渡した。
「ポナペ」とは、ドイツが命名した名称である。ドイツの植民地政策はキリスト教を背景とする強圧的なものだったので、一九一〇年(明治43)には住民の反乱が起こったが、ドイツは東洋艦隊を派遣してこれを鎮圧した。日本がドイツに宣戦しここへ艦隊を送って無血占領したのは一九一四年(大正3)十月だから、「悪代官」ドイツを追い払った形でどうやら住民には歓迎されたようだ。
日本の占領政策は他の島と同じ同化政策で、学校を建て水道を完備し、農業や漁業の振興策を進めた。日本からの移民も一九四五年(昭和20)の終戦時点では約一万三千人いた。これはパラオ、サイパンに次ぐ三番目の規模で、日本人の移民が多かったということは軍事上、産業上日本にとって重要な拠点だったということで、だからこそ前回述べたパラオのように日米両軍激闘の場となったのだ。海軍の拠点であるトラックを防備する役目を持っていたポナペはそのためにアメリカ軍の爆撃を受けたのだが、それ以上の悲劇が起きたのがサイパンだった。
サイパン島は面積百二十二平方キロメートル、マリアナ諸島の中心にあるが日本から一番近く砂糖の生産に適しており、漁業も盛んなうえ南洋諸島の玄関口として他の南洋の島々との貿易の中継点としても栄えた。当然、日本からの移民も増加し準国策会社の南洋興発株式会社(本社サイパン島)によってアジア最大の製糖地となった。南洋興発の創立者松江春次は「砂糖王(シュガーキング)」と呼ばれ、島内には彼の銅像が建立されたほどである。