ところが、この「日本に一番近い」という特質が不幸を招いた。アメリカ軍が総力を挙げてこの地を奪おうと動いたからである。ここで注意していただきたいのは、戦前にはICBM(大陸間弾道弾)など無く、敵国の国土に直接の打撃を与えるのは爆撃という手段しか無かったことである。したがって、爆撃機の航続距離が問題となる。まさか「片道特攻」というわけにもいかないから、爆撃機には往復できる航続距離が必要だ。当時最新鋭のB29爆撃機でも、アメリカ本土から飛び立って日本を爆撃して帰ってくるのは不可能だった。しかし、サイパンを手に入れればそれが可能になる。
つまりアメリカ軍は日本本土爆撃が可能になり、きわめて有利になる。実際、このサイパン攻略後アメリカ軍の日本への爆撃は頻繁に行なわれるようになり、日本側に大打撃を与えた。日本に最後のとどめを刺した広島・長崎への原爆投下もこのサイパン島のすぐ南西にあるテニアン島から出撃したB29によって行なわれたのだが、これもサイパンが陥落していなければあり得なかった事態と言えるだろう。
とにかく、アメリカはなにがなんでもサイパンを手に入れようと全力で総攻撃を掛けた。ところが日本側にはこの認識が薄く、サイパンがそれほどの激戦地になると予想していなかったので、多くの島民が犠牲になり残留した日本人も戦闘に巻き込まれ、結局集団自決する羽目になった。「バンザイクリフ」あるいは「スーサイドクリフ」と後に呼ばれることになる断崖から、多くの日本人男女が海に投身自殺したのである。そのため、前回紹介したようにパラオより早い二〇〇五年(平成17)、皇室としては初めて当時の明仁天皇・美智子皇后(現上皇ご夫妻)がバンザイクリフ等を慰霊のため訪問したというわけだ。
「神尾は慎重すぎる」
さて、この南洋諸島の激戦についてはいずれさらに詳しく語ることになるだろうが、ここでは一九一四年の第一次世界大戦における、日本とドイツの最大の戦いであった膠州湾攻略戦(青島の戦い)について述べよう。現在、青島と言えば中国のビール『青島麦酒』を思い浮かべる人がほとんどだろうが、この中国でもっとも古くから造られているとされる『青島ビール』は、膠州湾がドイツの租借地になってからビール造りの得意なドイツ人が技術を伝えたことが起源で、日本がこの戦いに勝って以後この会社も一九四五年までは日本人が引き継いで経営していた。つまり、「日本のビール」だったのである。
膠州湾は中国山東半島南側にあり、湾の入り口に青島がある。ドイツはこの湾を東洋艦隊の根拠地としていたが、すでに述べたように開戦後主力はただちにヨーロッパ戦線に派遣されたため、青島に残ったのは旧式の駆逐艦や巡洋艦それに水雷艇だけであった。したがって日本も旧式艦が主体の第二艦隊を海上封鎖に派遣したが、このうち防護巡洋艦『高千穂』は脱出を図ったドイツ海軍の水雷艇の魚雷攻撃で撃沈させられた。油断大敵とはこのことだろう。
一方、九月に山東半島北側に上陸した日本陸軍第十八師団は慎重に兵を進めた。総司令官の神尾光臣中将は危険を避けて安全な北岸に上陸し、偵察を繰り返しゆっくりと前進。二十八日には青島背後に到達した。当初の攻撃目標は、日露戦争のときの旅順攻防戦の二〇三高地と同様の地形の、浮山と孤山だった。そこからは青島を眼下に見下ろすことが可能で、重砲を据えれば要塞を直接砲撃できるからである。
しかしドイツ軍は要塞に籠もって戦うという「籠城作戦」を採用したため、かつての二〇三高地をめぐる大激戦のようなことは一切無く、日本軍は容易にこの地を占領できた。こうなれば日本は強力な砲台陣地を建設しじっくりと攻めればいい。膠州湾は日本海軍第二艦隊によって海上封鎖されているから、敵軍が補給する心配は無い。そもそも海上封鎖されていなくてもドイツ軍はここに応援を派遣する余裕も計画もまったく無かった。ヨーロッパが主戦場だからだ。ヨーロッパで負ければここで勝ってもなんの意味も無い。早い話が、膠州湾派遣軍はドイツ本国に見捨てられたのである。