リラックスした表情でバットを手にとり、口笛を吹きながら試合前の打撃練習に向かう。9月11日(日本時間12日)、戦線離脱中の大谷翔平(29才)は、8試合ぶりの試合出場に向けてにこやかな表情で準備を開始した。しかしバットを振り始めるとその表情は一変、練習を早々に切り上げ、その日もグラウンドに立つことはなかった。
今シーズンの大谷に現地メディアがつけたあだ名が「ユニコーン」。伝説上の生物に例えられるほど“現実離れした存在”だと評されていたのだ。
3月に開催されたWBCで日本代表を世界一に導くと、シーズン開幕後も好調をキープし、投げてはチームトップの10勝をマーク。打ってはホームラン王を独走と、まさに「二刀流」を体現していた。
積み重ねてきた努力は間違いじゃなかった──。シーズン途中までの自身のプレーに、大谷本人も手応えを感じていたことだろう。
だがシーズンも終盤に差し掛かった8月23日(同24日)、事態は急変した。
「投手として先発した大谷選手は、右肘に異変を訴えて2回途中で緊急降板しました。試合後に検査を行ったところ、右肘の靱帯損傷が判明。今シーズンの残り試合は投手として出場できなくなり、二刀流は突然の幕引きとなったんです」(スポーツ紙記者)
故障の予兆はあった。
遡ること20日前、右腕と指のけいれんにより4回でマウンドを降りた8月3日(同4日)の試合終了直前のことだった。
「ベンチに座っていた大谷選手は、茫然としたまま、まばたきを繰り返していました。その目は潤んでいて、いまにもこぼれ落ちそうな涙をこらえていたんです。普段は笑顔を絶やさない彼の感傷的な様子がSNSにアップされると、“大谷が泣いた”と話題になりました。この日チームは敗戦。試合に負けた悔しさもあったでしょうが、いまとなっては“限界”を悟った涙だったのではないかともいわれています」(在米ジャーナリスト)
球団はその日のうちに精密検査を提案したが、大谷はこれを拒否。その後、前述したように23日に再び異変を感じてけがが判明した。
「3日の段階で検査を受ければ、けがが明らかになることはわかっていたのではないでしょうか。自身のけがは“限界を証明”してしまう。そんな気持ちもあったのかもしれません。
大谷選手はチームを勝利に導くために、けがを隠してでも投げる覚悟があったんです。その頃、チームは優勝戦線に残れるかどうかの瀬戸際にいました。大谷選手はなんとかチームに貢献したいと無理を重ねてしまったようです」(前出・在米ジャーナリスト)
投手としての出場が絶たれた後も、大谷はけがをおして打者としての出場を続けた。
例年よりも早い3月から全力で走り続けた今シーズンは、大谷の体に想像以上の負荷がかかっていたのかもしれない。
8月3日以降、大谷のプレーは精彩を欠いた。8月の勝利数はけが前の1勝のみで、6月には15本を記録したホームランも5本にとどまった。
どうしてこんなことになったのか──。
理想的な日々を送ってきていた大谷にとって、それまでが順調だった分、落差が精神的な負担となったことは間違いないだろう。
そればかりか、強行出場を続ける大谷をさらなる悲劇が襲った。